『老乱』
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『白衣の嘘』
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『老乱』久坂部羊/『白衣の嘘』長岡弘樹
[レビュアー] 東えりか(書評家・HONZ副代表)
神戸の大震災のあと、舅が認知症を発症した。今のように介護保険もなく、専門病院も少なかった時代である。60代と若く体力があり、頭以外は健康そのものだから手が焼けた。久坂部羊『老乱』(朝日新聞出版)を読むと、その日々のことが鮮やかに蘇る。
四年前に妻を肺がんで亡くした78歳の五十川(いそかわ)幸造は大阪市内の家で独り暮らしである。息子の知之とその妻の雅美は、市内の少し離れた場所に孫ふたりと住んでいる。ある日、知之の家に警察から電話がかかってくる。聞けば近くの駅で幸造を保護したので、迎えに来てほしいとのこと。
駅では警察官と駅員が迎えてくれた。どうやら電気自転車のバッテリーが切れたため乗り捨てし、踏切のない線路を渡るという暴挙に出たという。怒り心頭に発している幸造の様子が異常だったため、雅美は認知症を心配し始めた。注意深く自宅周辺をみると、様々な問題が見つかった。
当の幸造も自分の異変をうすうす気づいていた。今まで出来ていたことが分からなくなり、味覚もおかしいことに気づく。だが、なんとか今の状態を保持したいと必死に日記を付け、漢字の書き取りを日課にする姿は涙ぐましいほどだ。
だがそんな日々もやがて崩壊する。息子夫婦は少しでも良くなってほしいと、世間で評判のリハビリを受けさせ、幸造はそれができない自分にじれて、また別の問題を起こす。険悪な関係になった両者が、最後に受け入れた方法は何か。
毎日のように報道される老人の事故や事件。このままの介護方法でいけば、加速度的に増えていくだろう。著者は一昨年まで十七年間、高齢者医療の現場で約三百人の認知症患者を診察してきたプロフェッショナルな医師である。だからこそ、患者側と家族側、両方の思いを書くことができた。厳しい現実だが、解決方法がないわけではない。
長岡弘樹『白衣の嘘』(KADOKAWA)は医師と患者が、医療現場で真剣に向き合った結果起きた物語を、6編収録している。それぞれの物語は、命に対する仕事をする上での嘘がテーマになっている。
偽医師を見破った医療の常識や、心の動きさえわかる体液の味、心筋梗塞から生還した男の過去の疵、「正直な医療の五原則」に背いた医者、次期センター長争いに隠された嘘、そして臓器移植の哀しい現実。
長岡弘樹の小説は一流のミステリであると同時に、人の心の奥底に潜む優しさと卑しさを同時に活写する。ハートウォーミングでありながら、目を背けたくなる気持ちにもなる。
医師は若い時から努力しなければならない職業である。それだけに志もプライドも高いだろう。自分の目指した道に、突然空いた大きな穴。それを塞ぐために吐いた嘘が、自分ばかりでなく他人の人生の転換点にもなってしまう。その先の道が明るい方へ向かう、そう信じられる小説である。