『しんせかい』
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しんせかい 山下澄人 著
[レビュアー] 伊藤氏貴(明治大学文学部准教授、文芸評論家)
◆回想体の語りの淡さ
「ぼく」は有名な脚本家の主宰する演劇塾に入る。北国にあるその塾は授業料はとらないが、自分たちの住む建物を作り、近くの農家の手伝いをしなければならない…と聞けば、ラベンダーで有名な北海道のあの場所や脚本家のあの顔が自然に思い浮かぶだろう。しかも「ぼく」の名前はヤマシタスミト、著者は「山下澄人」、本の見返しの著者紹介には「富良野塾二期生」と明記されている。これで実話に依(よ)らないと考える方が難しい。
作中であえて伏せられている固有名詞を作品外の現実に探すのは不純とも言えようが、しかしこの作品はあえてそうした古い私小説的な読み方を誘う。自分探しをする芸術家の卵が主人公というのも古い物語だ。そしてだからこそ際立つのが、「ぼく」の内面を排除したその語り口である。故郷との別れも、塾内のごたごたも、「ぼく」の心にさざ波ほどの動揺しかもたらさない。全ては淡々と流れ去ってゆく。
実際はもっと悶々(もんもん)としていたに違いない。ときには感情を爆発させたこともあったに違いない。しかし回想体の語りはそうした起伏を一切喚起しない。作品の持ち味はこの淡さだが、「ぼく」がこれを手に入れるには長い時間が必要だったに違いない。事実かどうかよりも、そこに時間がかける靄(もや)をこそ楽しむという点で、私小説とは似て非なる新しい小説だ。
(新潮社 ・ 1728円)
<やました・すみと> 1966年生まれ。劇作家・俳優・小説家。著書『緑のさる』など。
◆もう1冊
岡田利規著『わたしたちに許された特別な時間の終わり』(新潮文庫)。演劇界の新鋭が書いた小説。大江賞を受賞。