文学の遺産を「変形」しつつ継承する 安藤礼二

レビュー

3
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厄介な遺産

『厄介な遺産』

著者
福嶋亮大 [著]
出版社
青土社
ISBN
9784791769438
発売日
2016/07/25
価格
2,592円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

文学の遺産を「変形」しつつ継承する 安藤礼二

[レビュアー] 安藤礼二

 福嶋亮大は、本書の「あとがき」に、印象的な一節を書き残している――「歴史を再検証することは、作品の評価基準を変更することでもある。例えば、漱石や谷崎の作品がなぜ優れているのかという問いについても、私たちは基本的な枠組みから再考してよいだろう。そもそも、過去の作品を成長させ、そこに新たな価値を付与し、現代の時代状況にぶつけていくための【演奏法】を考案することに関して、日本の学者や批評家はややもすれば禁欲的すぎたように思われる。少なくとも、私は優等生的なコメンテーターであるよりは、不器用な演奏家でありたいと強く願っている」。

 作品自体を繊細に読み解きながらも、その位置づけを、広大な歴史の流れのなかで大胆に確定していく。作品の読み直しは歴史の読み直しであり、作品の解釈を変更することは歴史の解釈を変更することである。だから、文芸批評は歴史批評でもある。歴史とは、膨大な可能性を秘めた交響曲の未完のスコアであり、批評家は、過去のスコアを現代に甦らせ、そこに一つの完成をもたらす新たな指揮者にして新たな演奏家にならなければならない。当然のことながら歴史は時間的にも空間的にも閉じられたものではない。少なくとも、「日本」の「近代」の「文学」を論じるためには、「東洋」の「近世」の「演劇」というパースペクティヴが必要になる。

「東洋的近世」がもった「演劇的想像力」という「厄介な遺産」を引き継ぐことで、「日本近代文学」が可能になった。なぜ「厄介」なのか。大陸から列島へ、時間と空間の隔たり、あるいは文化の隔たりを乗り越えた末に可能になった遺産相続は、必然的に、「変形」を被った不忠実な継承にならざるを得ないからだ。そこにはさまざまな軋みや矛盾もまた生じる。そうした矛盾や抗争の痕跡を留めたまま、ミクロの作品分析からマクロの歴史分析にいたるまで、繊細かつ大胆に論じていく。きわめて気宇壮大な試みであり、おそらくは「中国文学」を専攻した福嶋にしかできないことだ。われわれの大部分は「西洋的近代」との比較対照から「日本的近代」の特異性を導き出すという方法に飼い慣らされてしまい、それ以外の方法を想像することすらできなくなってしまっている。

 福嶋が実践している孤高で孤独な営為に、限りのない称賛を贈りたい。しかしながら、一冊の書物のなかにあまりに多様な要素が詰め込まれているが故に、かえって見通しが悪くなってしまっている部分もある。特に、「地図制作者たち――紀行文のリアリズムと倫理」と題された第四章である。本書の「序章」で、福嶋は全体の構成として四つの対立軸をあげている。「近代のモダニズム」と「近世のモダニズム」、「近世由来の劇場文化」と「中世由来の旅行文化」、「モダニスト漱石」と「ポストモダニスト谷崎」、「東洋的近世」と「日本的中世」、といった対立である。このうち、「中世由来の旅行文化」と「日本的中世」を担うはずの第四章では、実際には「中世」が遠くかすかに望まれるだけで、章全体として主要な対立軸をなしていない。

 もちろん、そこで指摘された、田山花袋の紀行文がその自然主義文学を準備していたこと、森鴎外や折口信夫や島崎藤村が「中世」に回帰することで独自の作品世界の構築を志していたこと等々は重要である。特に、藤村の未完の遺作『東方の門』と中上健次の未完の遺作『異族』を対置する部分は鮮烈だ。しかし、彼らの地図作成は、やはり近代に固有のものとしか考えられない。そこから一気に「中世」へと飛躍するためには、それこそ、さらに分厚い歴史的な知の積み上げを必要とするだろう。

 本書の最大の功績は、同じ東洋的近世(中国及び江戸)の遺産である演劇的な想像力と両義的な関係を取り結びながら、それぞれ日本近代の表現におけるモダニズムとポストモダニズムを切り拓いた夏目漱石と谷崎潤一郎の間での「遺産相続」の核心を明らかにした点にあるだろう。ただし、漱石のモダニズムを「観客としての男性」と「演技者としての女性」、絵画的想像力と演劇的想像力との間の抗争として、充分な素材と分量を用いて分析した第一章「劇作家としての漱石――モダニズムとその変異」の見事な完成度に比して、第三章「恋愛の牢獄、クィアの劇場」は、谷崎のポストモダニズム(「クィア」)を浮き彫りにするために前半では北村透谷の「牢獄」と円地文子の「女性」が論じられ、谷崎論としての焦点がややぼやけてしまったことは、大いに不満である。福嶋自身も注意を促しているように、谷崎の作品は、演劇・彫刻・建築・インスタレーション(さらには映画)などの重層的なテクストとして読むことができる。谷崎の作品には「東洋的近世」が回帰している。しかし同時にヨーロッパ的近代もアメリカ的近代も相互に見分けがたく融合している。谷崎のポストモダニズムをさらに綿密に分析して欲しかったと思う。

 本書のなかで最も魅力的であったのは、漱石から谷崎へ、文学的遺産の継承にして「冒涜」を可能にした演劇的想像力の源泉である「東洋的近世」の在り方そのものを論じた第二章「東洋的前衛――二つの近代の衝突」である。この章が存在することによって、漱石と谷崎という二人の巨人の間に、これまでとはまったく異なった関係線が引かれた。福嶋は、日本近代文学の起源として、坪内逍遥があれだけ否定しなければならなかった「小説と批評、娯楽と学問の入り混じった馬琴のメタ意識に富んだ文体」、雅俗折衷の文体をあらためて定位し直す。しかも、その馬琴の文体が成り立つためには、転換期の中国大陸で、演劇性と批評性が奇蹟的に両立した分類不可能な作品群を書き続けた作家たちが必要であった。彼らのもつ批評性は、『水滸伝』を「キャラクター小説」として読み解くことを可能にする。『水滸伝』を論じる福嶋の筆は、他には見られない運動性と躍動性に満ちている。

 第二章に記された次のような宣言は、そのまま本書全体の主題を過不足なく説明してくれるであろう。「日本の文芸批評は明治期の「西洋化」の前に、まず近世の「中国化」の作用を蒙っていた」、あるいは、「私はここで、近代文学の出発点を明治から東洋的近世に前倒しして「近代」そのものを再定義すること、少なくとも西洋的近代の「前史」の文化的な分厚さを認めることを提案したい」。文芸批評の系譜を過去の方向にも未来の方向にも活性化してくれる、独創的で刺激的な著作である。

新潮社 新潮
2016年11月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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