阿川佐和子×遠藤龍之介×斎藤由香×矢代朝子 座談会〈前篇〉/文士の子ども被害者の会

対談・鼎談

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「町田市民文学館ことばらんど」開館10周年記念座談会〈前篇〉 阿川佐和子×遠藤龍之介×斎藤由香×矢代朝子/文士の子ども被害者の会

「あの父」の子にうまれたヨロコビとカナシミの幾歳月。
ナミダせずには読めない告白の連続です(少しだけ嘘)。

 ***

 ――町田市にお住まいだった遠藤周作さんが昨年(二〇一六年)没後二十年を迎えられたこともあり、本日の座談会を開くことになりました。まずみなさまのお父さまのお仕事をご紹介して頂きたいと存じます。遠藤龍之介さんからお願いいたします。

遠藤 父は昭和三十年代の後半に結核を患って長く入院しまして、退院してからは空気のいい所に住もうと町田へ引越して参りました。家を建てた時、たいへん嬉しそうだったのを覚えています。
 ろくでもない思い出話はしょっちゅうしているのですが、父親の仕事について語るのは初めてだと思います。一九五五年に「白い人」という作品で芥川賞を受賞しまして、代表作を私が言うのもヘンなものかもしれませんが、今度ハリウッドで映画化された『沈黙』という小説がございます。「タクシードライバー」とか「ギャング・オブ・ニューヨーク」のマーティン・スコセッシ監督が撮りまして、私もラッシュは観ましたが、非常に出来がいいので、ぜひ映画館に行ってご覧になって下さいませ。あとは最後の純文学長篇になった『深い河』、これは私にとってもいろいろ思い出深い作品です。

阿川 阿川佐和子と申します。阿川弘之の長女です。父は一九二〇年、大正九年の広島の生まれで、高校時代から文学に興味を持って、とりわけ志賀直哉先生の文章を一途に信奉していました。大学時代に志賀先生が公開座談会にいらした時、ほかの作家の方々もいらっしゃったのに、志賀先生にしか質問しないという嫌味な学生で、それも何回も質問したというので、後年志賀先生に「君か、あのしつこかったのは!」と言われたそうです。
 私は父の作品のことをよく知りません。「どうしておまえは俺の本を読まないのか」って言われてきまして、実際、唯一ちゃんと読んだと言えるのは『きかんしゃ やえもん』(会場笑)。
 これは父のせいでもありまして、私小説的なものもずいぶん書いているのですが、そこに出てくる娘というのがやたらに泣き虫で、癇が強くて、性格が悪いので、二、三ページ読んだら嫌になっちゃうわけです。ですので、ほとんどわかってないまま申し上げますと、父の代表作としては海軍提督三部作というか、『山本五十六』、『井上成美』……、えーと、ほら出てこない(会場笑)、そう、『米内光政』という作品があります。
 あまり文学賞には恵まれていなくて、それこそ芥川賞も直木賞も貰っていませんし、他の賞もあまり貰っておりません。「あんなもの貰ったって」と言いながら、娘の目から見ると、ちょっとひがんでるのかなーという気がしなくもないような。
 あと、私が中学生の頃でしたか、本屋さんに行きますと、文庫本の棚に、ここは北杜夫作品とか、ここは遠藤周作作品といった名前入りのプレートが差してあったものですが、阿川弘之というのはありませんでした。それをうちに帰って報告しますと、すごく不愉快そうな顔をしたのも覚えております。ひがみながら、一昨年の夏に九十四歳で立派に老衰死いたしました。

矢代 矢代静一の長女です。他の先生方は小説家ですので、みなさん馴染みがあると思いますが、私の父は戯曲を書く劇作家でございます。父は昭和二年に銀座の商家で生まれまして、子どもの頃から歌舞伎も新派も新劇もと芝居に親しんでおりましたので、自然にそっちの世界に興味を持ったんだと思います。戦争が激しくなって、どうせ死ぬなら、自分の一番興味があることをしたいと、俳優座の研究生というか、千田是也先生の書生みたいなことで、演劇の道に入ったようです。幸い、父は死なずに済んだのですが、その後、文学的な方向で演劇をやりたいと、加藤道夫さん、芥川比呂志さんに誘われて、岸田國士先生などが作った文学座に移りました。そこで三島由紀夫さんなどとも交流しながら、劇作家兼演出家として仕事をしていったわけです。
 父は早稲田の仏文でしたので、はじめはフランス的な芝居を書いていたんですけども、四十代から、やはり四代続いた江戸っ子ということもあって、浮世絵師の世界は皮膚感覚でわかったのでしょう、『写楽考』『北斎漫画』『淫乱斎英泉』という浮世絵師三部作を書くことになりました。
 みなさんが戯曲を本屋さんで買ってお読みになることはまずないと思います。父の作品がお目にとまるのは、芝居が上演されている時です。父が亡くなってもう十九年になりますが、細く長く父の作品を上演して下さる劇団、プロデューサー、俳優の方がいらっしゃるのはありがたいことだと思います。

斎藤 北杜夫の娘の斎藤由香と申します。今、お三方のお話を聞きながら胸一杯になっておりました。父は毎年夏の軽井沢で遠藤先生、矢代先生と楽しく過ごさせて頂きましたし、また、阿川先生を崇拝しておりまして、晩年まで非常に親しい時間を持たせて頂きました。私達四人が集まるのは初めてで、このようにお話しできる機会が与えられたのは遠藤先生のおかげだと胸いっぱいです。
 父は旧制松本高校に進学いたしまして、信州の山々や昆虫にすっかり魅せられて、昆虫学者になりたいという夢を抱いたのですが、それを父の父である斎藤茂吉に告げますと、「昆虫学者では食えない。絶対、医者になれ」という怒りの手紙が送られてきまして夢破れたわけです。東北大学医学部に進学して精神科医になり、ある時、水産庁の漁業調査船が船医を募集しているのを聞いて応募し、海外へ行った際、ドイツにいた母と知り合って結婚しました。母は医者夫人になったと思っていたら、途中から夫は作家になり、躁鬱病になり、夫婦別居もし、破産まですることになって、母は「詐欺に遭ったみたいね」と申しております(会場笑)。
 父の代表作に『楡家の人びと』という作品があります。実にへんてこりんな人物ばかりが出てくる小説ですが、これは精神科医としての父の人間に対する愛情が現れているように思います。
 父は長年、「ユーモア溢れる映画を作りたい。そのためには映画の製作費が何千万円も必要だ」と、製作費を捻出するために証券会社四社を相手に株の売買を繰り広げ、わが家はすっからかん。中学一年生の私のお年玉までもが生活費にあてられるという大変悲惨な生活になりました。それが、父が亡くなって六年目にして、昨年十一月に『ぼくのおじさん』という小説が東映で映画化されまして、やっとユーモア溢れる映画を作りたいという父の夢が実現したように感じております。
『ぼくのおじさん』を久しぶりに読み返しましたが、父が三十五歳まで結婚せず、慶應の医局に勤めてはいても無給でお金もなく、兄の斎藤茂太の家に居候して、甥っ子たちの漫画を奪い合うようにして読んでいたという自分をモデルにしたダメダメおじさんの物語です。これもやはり、父がそういうダメな人への深い愛情を持っていたのだろうなと思えました。
 本日は佐和子さんや龍之介さん、朝子さんのご家庭の大変さを伺って、「うちだけが大変じゃなかったのだ」と思いたいです(会場笑)。

新潮社 波
2017年2月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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