加藤典洋 テキサススタジアムでイラク戦争を。/ベン・ファウンテン『ビリー・リンの永遠の一日』

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ビリー・リンの永遠の一日

『ビリー・リンの永遠の一日』

著者
Fountain, Ben, 1958-上岡, 伸雄, 1958-
出版社
新潮社
ISBN
9784105901349
価格
2,530円(税込)

書籍情報:openBD

加藤典洋 テキサススタジアムでイラク戦争を。/ベン・ファウンテン『ビリー・リンの永遠の一日』

[レビュアー] 加藤典洋(文芸評論家)

 戦争勃発からほぼ一〇年、ようやく現れたイラク戦争の小説である。訳者の上岡伸雄によると、この戦争とそれまでの戦争の違いは、生死をかけた凄惨な戦場から豪奢とセックスとポップカルチャーにまみれた本国までが「ほんの数時間」の飛行機での旅でつながるようになったこと、また、徴兵制がなくなり、国内に貧富の差が拡大した結果、入隊を志願する兵士と大学に進む中間層のあいだに、これまでになく階級差が露骨になった点だという。(『テロと文学――9・11後のアメリカと世界』)

「戦争」と「平和」がここまで一人の個人の中で隣接してしまうと、かつては人間の問題、つまり思想の問題として現れたことが、人間の壊れの問題、つまり精神的危機の問題として現れるようになる。またここまで学歴差が戦争に持ちこまれてしまうと、これまでのように帰還者によって彼の経験した戦争が書かれるという機会が、ぐっと少なくなる。

 この小説の作者、ベン・ファウンテンは、一九五八年生まれ。弁護士出身であり、戦争は経験していない。二〇〇四年、あるアメフトの感謝祭の試合をテレビで観戦中、彼はハーフタイムショーでイラクからの帰還兵の一団がフィールドを行進しているのを見たような気がして、そのとき、大丈夫か? これは彼らの頭にどう作用するのか? どうして気が狂わずにいられるのか? と考えた。中東に派遣され、日々生きるか死ぬかの地獄を経験している若い兵士たちと、本国で巨万の富を動かすお偉方と、アメリカの夢の祭典――自由とセックスと札びら――とが、あるとき、一堂に会する。すると、何が起こるのか。

 この小説では、その英雄的戦闘行動により一躍全米を歓喜の渦に巻き込んだブラボー分隊の生き残り兵士八名が、イラクから呼び戻され、二週間の戦意高揚ツアーのあげく、アメフトのテキサススタジアムでのダラス・カウボーイズ対シカゴ・ベアーズ戦でのビヨンセの歌う豪奢でセクシーなハーフタイムショーの盛り上げ役にと投入される。

 主人公のビリー・リンは一九歳。大切な戦友シュルームは先の戦闘で死んでいる。この作品には二つの焦点がある。一つは彼と姉キャスリンとの電話での会話だ。彼女は交通事故で瀕死の重傷を負い、それを理由に婚約者に逃げられる。ビリーはその姉の婚約者の車をめちゃくちゃにし、減刑を得ることの条件として入隊した。姉はいう。ここまで激戦を生き抜いてきたのだから、もう戦地に戻っちゃいけない、支援グループが助けてくれる。ビリーは答える。いや、帰るよと。仲間を裏切りたくないんなら、みんなが残ればいいじゃない、誰も臆病だなんて思わない。そう聡明な姉が返すと、彼はいう。そういう問題じゃないんだと。私のせいで軍隊に入ったんだから。彼女は泣き崩れる。いや、そうじゃないんだ、これは僕が自分で選んだことなんだ。――戦場に行き、生死をくぐった者にしかわからないことがある、と戦争を経験していない作者は、主人公に考えさせる。

 またもう一つ。ビリーは、アメフトのセレブの猛者たちにロッカールームでサインをもらいながら、尋ねられる。人を殺すって、どんな感じ? ビリーは思う。それか。「難しい質問だ。まさにそこで心が苦しんでいるのだ。いつの日か、そこに教会を建てなければならない。」彼は答える。「どんな感じもしません。戦闘が続いているあいだは」。一九歳の主人公に、自分の回りに集まる人々はみな、サンタが本当にいると言い張る子供のように見える。

 話は彼らの映画を作り金儲けしようとするアメフトのオーナーとブラボー分隊の上官ダイム軍曹の対決へとハリウッド映画的に進み、ビリーとチアリーダーの女の子フェゾンとのセックスと恋の物語もからむ。じっさい、この小説は名匠アン・リー監督の手で映画化されてもいる。少し「面白すぎる」。しかし「にがく」もある。

 なぜこんな理不尽な戦争をアメリカは続けるのか。なぜ、ブッシュ、またなぜ、トランプなのか。誰もがいつまでもあの「アメリカの夢」から醒めることができないから、というのがこの小説の書き手の考えである。主人公ビリー・リンもこの夢のなかにいる。夢の中にいて彼は苦しんでいる。しかし、夢から出られない。そのまま彼を「戦争に向かう」リムジンに乗せ、この小説を終わらせているところに、この作家の力がよく現れている。

新潮社 波
2017年2月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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