鷲田清一 最初の読者の「ぞくぞく」/永田和宏『生命の内と外』

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生命の内と外

『生命の内と外』

著者
永田 和宏 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
自然科学/生物学
ISBN
9784106037948
発売日
2017/01/27
価格
1,404円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

鷲田清一 最初の読者の「ぞくぞく」/永田和宏『生命の内と外』

[レビュアー] 鷲田清一(哲学者)

 異物を口から摂取し、消化管を通して、肛門から排出する。人体とはまるでチューブのよう。このチューブをうんと短縮すればドーナツの形になる。消化管とは、だからドーナツの内周、つまり外壁だということは、すぐに想像できる。けれども栄養素がその壁を通してどのように人体の内部に入ってくるかと考えると、その壁に開いた穴も中空の管であるほかない。そしてさらにその管の中に入っていこうとすれば……というふうに考えてゆくと、いかに細分化されようとも内/外を区切る壁は最後まで残るのではないか。異物はついに内部に入れない。人体はどこまで行ってもそんなスカスカのスポンジのようなものでしかないのでは。

 と、ここまではだれもが考えつく。これはアキレスと亀の話を思い出させる。前にいる亀の位置までアキレスが達したときは、亀はすでに少し先に行っている。さらにその地点に到着したときも、亀はまたわずか先に行っている。つまりいつまでも亀を追い抜けないという、あのゼノンの逆説だ。けれども腸壁の場合、管がどんどん小さくなるなかで、もし入ってゆく物が一定の大きさをもっているなら、いつか自分よりは小さな管に遭遇する地点でもはや管の中に侵入できなくなるはずだ。そこをも通過しようとすれば、こんどは自分を分解するほかない。つまり、同じ一つのものとしてはもはや存在しえなくなる道理だ。管を通して呑み込むほうにしてもしかり。が、ともに別のものへと分解=変成するとすれば、自他の区別がなくなって異物を内部へと摂取するという事態も成立しない。だからまた何かの内/外ということも言えなくなる。こうして、人間チューブ説(チュービズム)は頓挫してしまう……。ここまでは素人の推論である。

「生命であるための最低限の条件」とされる三つのこと、1.外界から区別された単位であること、2.自己複製し、子孫を残せること、3.代謝活動を行っていること。このいずれもが内/外、もしくは自/他という概念対を含んでいるかぎり、逆説を放逐することはできない。〈私〉という存在は、自と他、内と外、一と多、同一性と差異、恒常性と変化といった概念対それぞれの前項をつなぎ合わせたところに成り立つが、おなじことは生命体のレヴェルでもいえる。この逆説が本書では、生命体における物質とエネルギーの出し入れの仕組みとして、ひいては「閉じつつ開いている」ことのアポリア(難問)として探究されている。

 内と外の境界は生命の場合、〈膜〉である。その〈膜〉がどのようにみずからを構造化しつつ生成し、さらに変容させてゆくのか。それは、「見事」とか「あっぱれ」、「うなるしかない」とか「舌を巻く」と著者が連発してしまうほどに、精緻で巧妙な仕組みになっている。分解と合成、通過と輸送、構造変換とフィードバック制御、そのいずれのプロセスをとっても、泡を食うほど「賢い」。「そこまで考えてやっているのか」と細胞たちに声をかけたくなるくらいだ。

 そのような専門的な議論とはいえ最後まで読み通せたのは、著者が、細胞が不断にしていることを、商品搬送や郵便のシステム、品質管理や廃棄物処理、国境の行き来などに重ね合わせながら、それらがパラレルであることを教えてくれるからだ。細胞の自己維持と、〈私〉の、社会の、国家の自己維持とのあいだに見られる同型的な構造の反復。もちろん、アナロジーはあくまでアナロジーであって、そこには次元ないしは水準の差異が、したがってまた構造化の原理の差異が厳然としてある。けれども、そのアナロジーが読む者の思考をあらためて攪拌する。

 自己に「非ず」として何ものかを区切ることに生命のすべてがかかっていることから、私たちの「存在」がいかに「所有」(の感覚と権利)に負っているかにまずは思いがおよぶ。統合失調症や離人症という病における「自己」の失調にも、自我の淵にある「エス」とよばれる欲動と無意識の検閲装置にも、神話的思考における世界の「分類」にも、そしてさらにコミュニケーションにおける「波長を合わせる(チューン・イン)」現象にまで連想はおよぶ。ぞくぞくしてくるのだ。

 そしてそのぞくぞくは、終いのところで、牛海綿状脳症(BSE)における脳のスポンジ状のスカスカ(素人による最初の推論を思い出していただきたい)、さらにその病原体であるプリオンが、結局「何のために」こんなはたらきをするのかがついに不明だと述べられるところで、沸騰した。謎は深い。

新潮社 波
2017年2月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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