〈対談〉保坂和志+山下澄人 「世界を変えるために」

対談・鼎談

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しんせかい

『しんせかい』

著者
山下 澄人 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784103503613
発売日
2016/10/31
価格
1,760円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

〈対談〉保坂和志+山下澄人 「世界を変えるために」

■「天然」の強度を維持して書く

保坂 ところで『しんせかい』では突然、空から【谷】を見下ろす鳥の視点に変わるところがあるでしょう? こういう書き方は、たいてい小説ではルール違反だから良くないと言われるんだけど、映画なら普通のことです。そしてその光景は、読んだ全員が理解できる。読んでわかるなら、やって良いことや悪いことなんて無いと僕は思う。

山下 その光景が、まるで映画みたいに僕に見えているわけではないけど、普通に書き続けていると飽きてくるんです。だからペコッて出てきてしまうんです。

保坂 冒頭の、スミトが富良野に船で渡るところは、〈船が動き出した。いやまだ動いていない〉。それから小説の結びでも、〈満月に見える。少し欠けているようにも見えた。月など出ていなかったかもしれない。夜ですらなかったかもしれない〉――どちらも書いてすぐに否定をしているけど、ここは「どういうこと?」って作家に問うところではないんだよね。それはもう、「あなたがそこが気になるのだったら、あなたはずっとそこを気にしてなさい」としか返しようがない(笑)。

山下 何というか……、「船が動き出した」って書くと「ああもう、なんか嘘くさい」って感じてしまうんです。

保坂 わかる(笑)。それから、富良野に到着したばかりの二期生たちが互いの呼び名を決める場面では、〈(その呼び名は)大変に呼びにくいが慣れれば普通にいえた〉とか、〈(この二人は)以降まさに犬猿の仲となるのだけど〉と、随分先のことも書いてしまっているんです。つまり、作者はそこには興味がなくて、このあたりのことをのちに膨らませるつもりもないというその関心のあり方を、無意識にも先に語ってしまっている。こういうところも書き方としてあまり良くないという人がいるかもしれないけど、それを問うことには何の意味もない。
 僕はやっぱり、山下さんが小説を書くときにとるこうした態度というのは、「小説とはこうだ」と考えられている世界のなかでそれを上手くやることよりも、自分が見ているもの、考えている何かをかたちにするために何でもやる、っていうことだと思うんです。授業で何を教わったかを書かなかったことにも表れていると思うけど、山下さんや僕は、ある枠のなかで、たとえば良くできたものを見習って、上手くなろうとするタイプではない。

山下 でも僕は、その枠組みをわからないままに書いているだけで、だから「こんなふうに書いて良いのかな?」と考えた時期もありましたけど、保坂さんの小説を読むと「あ、良いんだ」と思えるから書けてるんです。

保坂 前を行く人が枠を壊すと、次の人はその手間が省けて楽になるかというとそうじゃないから、枠を壊すことは必ずしも良いことではない。でも、山下さんのようにまっさらで、「天然」の強度を維持して書く人が出てきたことを考えると、やっぱり壊して良かったなって思いますね。

山下 たしかに僕は「天然」ですね。そうやって外してもらった枠のなかで自由に走り回っているだけ。

保坂 「天然」じゃなくて「天然の強度の維持」なんだよね。山下さんは演劇でも、素人に参加させるじゃない? 普通は役にイメージがあって、役者はそれに合うかたちに演技を仕立てていくけど、山下さんは台詞を覚えられない人もそのまま舞台に上げて、隅にただ立たせておいたりする。その人をありのまま、そこに出す。
 だから「そのまんまで行く」というのが山下さんの演劇であり、小説なんです。『ギッちょん』や『壁抜けの谷』を普通の小説と同じように理解しようとしたら、複数の人物や場面の整合性を問い始めて大混乱を起こしてしまうから、やっぱり整理はしちゃいけない。っていうより、書いてある順にそのまま読む。だって誰かと一晩酒を飲んで語り明かしたとして、そこで話したことなんて後からまとめないでしょ。面白かったか退屈だったかのどちらかが残るだけで。
 僕の『朝露通信』も、舞台が山梨や鎌倉、あるいは現在と過去とひっきりなしに飛ぶけど、検事をやっているような友達が読むと「これは難しいな、実験小説だ」って言うんです(笑)。でも、同級生のお母さん、その人はもう八十歳を過ぎてるんだけど、「すごく楽しかった」って。彼女は小説に時間軸や因果関係がなければならないとは思っていないからそのまま読める。少しでも「こうあるべき」という頭があると、途端に難しいものになってしまうんですよね。

山下 何が書かれているのかを掴もうとする小説の読み方もあるとは思うけど、たとえば『地鳴き、小鳥みたいな』は、ここに書かれていないことが書かれているとしか言いようがないですよね。保坂さんはおそらく、ここに書かれていないことを書くために、この小説を書いたはずで。

保坂さんの小説は、読み終えたあとに「そうそう、僕が言いたかったことも、これ」という確かな感触が残るんです。それで今は、保坂さんが書いたことなのか僕が考えたことなのかわからないことが沢山あって、初めの頃はそれを厳密に分けようと努めたけど、「もう、どっちでもいいや」って(笑)。

保坂 そこは僕も同じ。一人で考えているわけではなくて、むしろ一人で考えることにはあまり意味がないとも思ってるんです。たとえば僕には哲学者の樫村晴香という存在があり、彼が示す方角を見てわかったことや、彼の見せた土地があるからできることがある。

山下 なるほど。僕が『地鳴き、小鳥みたいな』を読んだときに感じた「ああ、一人じゃないんだ」という幸福感は、そういうところから来ているのかもしれません。最近、自分の考えが僕個人が考えていることという感じがしなくて、頭の上になにか層のようなものがあって、そこに時々、頭がちょこちょこと当たっているんだけど、その先にはもう何百年、何千年という層が続いていて……みたいなことを感じるときがあるんです。

新潮社 新潮
2017年1月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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