奇想で知られる松浦理英子が4年ぶりの新作!
[レビュアー] 小山太一(英文学者・翻訳家)
奥泉光といとうせいこうの「文芸漫談」シリーズ(すばる)は裏切らない。芸達者に聞かせつつ、いつも新鮮な発見に満ちている。
今回のお題は夏目漱石の『吾輩は猫である』。語り手の持つ「吾輩性」と「猫性」の落差がユーモアを生んでいるという指摘が鮮やかだ。「吾輩」を「吾輩」たらしめる教養は漱石のもの。だが漱石は、その教養を一匹の猫にコミカルに浪費させるため、人間界に暮らす猫の孤独を真剣に引き受けて書いた。その経験が、漱石を神経衰弱から回復させたというわけだ。
引き受けるという行為は、松浦理英子「最愛の子ども」(文學界)の語り手である〈わたしたち〉を特徴づけるものでもある。
舞台は高校の女子クラス。聡明で大胆な日夏(ひなつ)、直情的な真汐(ましお)、保護欲をそそる空穂(うつほ)というキャラの立った三人が、疑似的な〈ファミリー〉を形成する。彼女らを脇からそっと愛でているような恰好でテクスト上に浮かび出た〈わたしたち〉だが、その振る舞いは加速度的に大胆になってゆく。
とうとう〈わたしたち〉は日夏・真汐・空穂になりきり、三人の視点を引き受けて、「ロマンス」の進行を物語りはじめさえする。もしや、日夏も真汐も空穂も〈わたしたち〉の孤独な創作の産物なのだろうか?
だとしても、いいではないか。「わたしたちがわたしたちのために語ってきた物語」の中で三人は、愛でられ消費されるにとどまらず、抑えがたい個性と意思と愛情を持つ存在となってゆく。それらを引き受けて真剣に語ることこそ、三人に対する〈わたしたち〉の「最愛」の証なのだろう。
評論では、高原到の「不可視との遭遇―原爆をめぐる『儀式』」(群像)を。バラク・オバマの広島訪問と安倍晋三の真珠湾訪問は、ある「見て見ぬふり」を贈り合う歴史的な儀式の再演だ、と論じるものである。
その儀式の中で反復された消去・切断・消費の手続きについての高原の指摘は切実だ。この評論が広い読者層を獲得することを私は願う。だからこそ、もう少しだけ平易で親切な書き方に寄ってくれてもよかったのでは、とも思うのだが。