『村上春樹と私』
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春樹文学の翻訳家によるエッセイ
[レビュアー] 佐久間文子(文芸ジャーナリスト)
村上春樹の翻訳者として知られる、日本文学研究者のエッセイ集。人生を左右する対象に出会い、のめりこんでいくまでの心の弾みが、軽やかな文章から伝わってくる。翻訳者の名前がないので、日本語で書かれたものと思われる。
文学研究者にとっては当たり前のことだが、著者がそれまで研究や翻訳の対象としたのは、一度だけ食事をしたことのある野坂昭如を例外としてすべて死んだ作家だった。それが、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の評価をアメリカの出版社から求められたことで村上作品に出会い、魅了される。以後、短篇から始まり、『ノルウェイの森』『1Q84』などの長篇も翻訳してきた。
作家本人とも親しく、クロスカントリーに行ったりする私的なつきあいもある。村上春樹の素顔が垣間見られて楽しいが、注意深く読むと、作品を理解するうえで必要なことしか書かれていない。プライバシーを大切にする作家を慮ってというより、著者の関心はすべて、作品理解を深めることに向けられているようだ。
翻訳という仕事の重要性にも改めて気づかされた。たとえば『1Q84』には、月が二つ見える、重要な場面がある。日本語の「月」なら数を明示せずに書けるが、英語では「s」の有無で一つか二つかわかってしまうので、「moon」という言葉をできるだけ使わず、英語に移し替えていく。
異なる体系の言語を正確につなぐだけでなく、「無意識と偶然の連続である創作過程」についても作家に踏み込んだ質問を投げて、必要な答えを粘り強く引き出す。村上作品の翻訳だけでなく、芥川龍之介の短篇集を新たに訳し、村上の序文をつけてペンギン・クラシックスから出すなど日本文化紹介にも非常に大きな役割を果たしてきた。
著者のフェアネスも気持ちがいい。たとえば村上春樹の翻訳者としては『羊をめぐる冒険』を訳したアルフレッド・バーンバウムがいるが、「村上作品の国際的な人気はアルフレッド・バーンバウムという翻訳者に負うところが大変大きい」とはっきり書く。誤訳を指摘してきた未知の言語学者に丁寧な返事を書き、再版が決まっていた漱石『三四郎』の旧訳を読んでもらって議論を重ねて修正したうえで出した。
そういう時間がとれなかった村上の『1Q84』に関しても、もらった「誤訳リスト」をBOOK3を担当する別の翻訳者にも転送したというから、徹底している。こういう開かれた誠実さがさまざまな偶然を呼び込み、人生を実り多いものにするのだろう。戦前の検閲制度を研究した本(『風俗壊乱』)や、日系人の強制収容所を題材にした小説(『日々の光』)でもその態度は共通している。