人生を豊かにしてくれる「禅問答」についての考え方

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人生がうまくいく 哲学的思考術

『人生がうまくいく 哲学的思考術』

著者
白取春彦 [著]
出版社
ディスカヴァー・トゥエンティワン
ISBN
9784799320389
発売日
2017/02/24
価格
1,540円(税込)

人生を豊かにしてくれる「禅問答」についての考え方

[レビュアー] 印南敦史(作家、書評家)

人生がうまくいく 哲学的思考術』(白取春彦著、ディスカヴァー・トゥエンティワン)は、ベストセラーとなった『超訳 ニーチェの言葉』の著者による新刊。今作では「生き方のコツ」を伝授していますが、そのベースとしてあるのは、著者が自分自身の興味と楽しみから読んでいるのだという哲学関連の書籍です。

私は哲学書を思考と人生経験の芸術だと思っている。論理の正確さだの思考体系だの真理の探求ではないと思っている。(中略)人生について考えることは、重要度において論理のような人工的なものをはるかに越えた事柄ではないだろうか。
もし、人の生き方を論理と効率性で割り切って考えてしまうのならば、結局のところは経済的損得勘定になってしまうだろう。そんな味気ない虚無主義的な人生を、私個人は人生と呼びたくない。(「はじめに」より)

とはいえ著者は、一生読んでも読みきれないほど存在する哲学書のすべてが素晴らしいわけではないことも認めています。有名な古典にも共感できないものはあるし、評価されていなくても素敵な哲学書もあるということ。

そして本書は、「その中のごく一部をひとつまみだけ借りてきて、わたしたちの生き方にからめてなにがしか書いてみたもの」なのだそうです。別な表現を用いるならば、「わたしたちが生きるにあたって何かの助けになるようなヒントの種を埋めたもの」。きょうは第2章「悩むな、考えろ」のなかから、「禅問答」についての考え方を引き出してみたいと思います。

価値判断から自由になる

禅は、一種の魅力を備えているように見えると著者はいいます。禁欲的で、静謐(せいひつ)で、真剣で、座禅している姿には風景を墨色に変えてしまうような迫力があり、神秘的で、沈黙を通しているのに多くの言葉を読み取ることができる。だから、まるで禅僧たちはアナザーワールドにいるかのようだというのです。

しかしその一方、過去の禅師たちの言行を収録した禅語録を読んでみると、得体の知れない気合いこそ伝わってくるものの、いまひとつ理解できないのだそうです。そればかりか、悟りという言葉が繰り返されるにもかかわらず、悟りがどういうものか明瞭に説明されてはいないというケースも少なくないのだとか。

説明に似たような対話や文章があるにはあるけれど、抽象的な詩のような説明であるため、現実感がなく理解が困難。だから、ひょっとしたら悟りとは幻想や妄想の類ではないか、禅問答はふざけた言葉遊びか、ナンセンスでしかないのではないだろうかという疑問が持ち上がってくるということ。こうした思いは、誰しも少なからず抱いた経験があるのではないでしょうか?(90ページより)

禅問答は意味をつかむためのものではない

たしかに現代社会では、「禅問答」という言葉は一種の揶揄として使われることが少なくありません。「まるで禅問答だな」というのは、理解しがたいという非難を含んだ皮肉であり、互いにわかったようなわからないような受け答えとか、まるで噛み合わない会話のことをからかっているわけです。

これは、禅師と僧侶たちの問答が一般には理解できなかったことに由来するだろうと著者は記しています。なぜ庶民に理解できなかったのかといえば、禅門でしか通じない特殊な言い回しや、庶民にはなじみの薄い漢語の多用、禅独特の論理や引用が多かったから。たとえば次のような短い禅問答も、意味が取りにくいわけです。

『無門関』第七 趙州洗鉢(じょうしゅうせんばつ) (西村恵信訳)

ある時、僧が趙州に尋ねた、「私はこの道場に入ったばかりの新米でございます。ひとつ尊いお示しを頂きたいと思います」。すると趙州が言われた、「朝飯はすんだかい」。僧が言った、「はい、頂きました」。そこで趙州が言われた、「それでは茶碗を洗っておきなさい」
僧はいっぺんに悟ってしまった。

『無門関』第十八 洞山三斤(とうざんさんぎん) (私訳)

ある僧が洞山和尚に訊いた。
「仏とは、いったいどのようなものでしょうか」
「仏か。仏とはここにある麻三斤」(麻の繊維1.8キロほど)
(ともに92ページより)

これらの禅問答は、修行僧を悟りに導く気づきを与えるためのもの。しかし読んでみればわかるとおり、一般の文章として素直に意味が理解できるものではありません。しかし、そこには理由があるようです。禅問答は意味をつかむためのものではなく、悟りの境地を示唆するものになっているから。なぜ端的にいい表さず、示唆しかしないかといえば、悟りの境地自体が、言語表現だけでは的確に説明できない状態だからだというのです。(91ページより)

悟リとは「無分別な生き方をする」こと

それでもなお、たとえば次のように、これまでの禅師たちは悟りの状態をなんとか言葉で伝えようとしてきたのだといいます。

「”無”の一字の別体験こそは、釈迦に逢うては釈迦を殺し(仏縛を破り)、達磨に逢うては達磨を斬って捨てる(祖師縛を破る)のであり、そのとき、君たちは生死無常の現世に在りながら、無生死の大自在を手に入れ、六道や四生の世界に在りながら、すでに平和と真実の世界に遊んでいる」(『無門関』第一 平田精耕訳) (93ページより)

「悟ってみれば、ものごとはすべて同じ身内の事柄だが、悟らないときは、一切がばらばらである。悟らなければ、ものごとはすべて同じ身内の事柄に見えるが、悟ってみれば、いちいちすべてがそれぞれの個性を有っている」(『無門関』第十六)

「好いと言うてもこれは好いという決ったものはなく、悪いと言うてもこれは悪いという決ったものもない。是非得失相対の世界を離れてきれいさっぱりとした処で、さあ言うて見るがよい。眼の前・背後にあるものはいったい何であろうか」(『碧厳録』巻第九 大森曹玄他訳) 
(ともに94ページより)

悟りの状態についてのこれらの描写は、ひとつのことで共通していると著者はいいます。それは、価値判断と相対性からの徹底した脱却だということ。

普通の生活において、私たちはたいていの場合、損得勘定、利害関係、慣習、社会的規範、善悪の分別、いっときの感情に動かされているもの。それが、分別のある生き方だとされているわけです。しかし著者によれば、悟りの道を往くというのは、無分別な生き方をするということ。ただし、この場合の無分別というのは「常識知らず」という意味ではなく、「価値判断と相対的思考をしない」という意味での無分別なのだとか。(93ページより)

相手の地位や自分との関係によって分けへだてしない

こうした無分別な生き方をすれば、アナザーワールドを自由自在に生きる楽しさが味わえるという考え方。それが、あらゆる禅語録の中心となっているのだということです。

なお、このアナザーワールドは、禅宗では、無、一如(いちにょ)、真如(しんにょ)、妙法、安楽の法門、本来の面目(めんもく)、非心非仏、廓然無聖(かくねんむしょう)、平常心(びょうじょうしん)、三昧境(さんまいきょう)、生死自在(しょうじじざい)、超凡越聖(ちょうぼんおっしょう)、大自在、真実の世界など、いろいろな呼ばれ方をしているのだそうです。

しかし、どれも漢語による表現だから難しく思えるだけで、意味内容は「超越」と「無分別」だけ。このことがわかれば、禅問答の意味もわかりやすいと著者は記しています。

物事も価値も分けへだてせず、相手に対してもその地位や存在によって分けへだてしないから、誰に会うことになっても、相手を人としてしか見ないということ。つまり、好き嫌いという感情を捨て、損得を捨て、「こっちにくらべてあっちがどうの」という比較や相対的な考え方を捨てる生き方のことだというのです。(95ページより)

特別な方法を求めず、いまをきちんと生きる

だから、特別なものはこの世にないということ。自分すらも特別ではなく、仏も神も、悟りですらも特別でありがたいものとはされないという解釈。しかし、なにもかもが特別ではないからこそ、なにもかもをないがしろにするということではないのだといいます。むしろ、あらゆるものが自分となるというのです。あるいは、あらゆるものがありがたくて尊い存在になるということ。

だから、先の例のような「飯を食ったら茶碗を洗う」という日常の事柄のひとつひとつが、このうえなく大事なものになるというわけです。若い僧が「いっぺんに悟った」のは、そのことに気づいたから。それまで若い僧は、和尚がいままで秘められていた悟りの道へのノウハウを教えてくれるのではないかと期待していたのです。ところが特別な秘法があるわけではなく、「いまをきちんと生きる」ことの大切さに気づいて目を開いたということ。そして、この考え方は現代人にもそのまま当てはまると著者は主張しています。

「わからない」ことをまず認めたうえで、簡潔な文章によってシンプルに解説しているからこそ、読み手も無理なく読み進めることができるはず。そうして自分自身の内部に吸収されたものは、なんらかの形で人生に影響を与えてくれることでしょう。

(印南敦史)

メディアジーン lifehacker
2017年3月1日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

メディアジーン

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