伊集院 静『東京クルージング』〈刊行記念インタビュー〉 悲しみには、いつか終わりがくる――。出会いと別れを凝縮した長篇小説。

インタビュー

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東京クルージング = Tokyo Cruising

『東京クルージング = Tokyo Cruising』

著者
伊集院, 静, 1950-
出版社
KADOKAWA
ISBN
9784041032657
価格
1,760円(税込)

書籍情報:openBD

伊集院 静『東京クルージング』〈刊行記念インタビュー〉

彼女はどこへ消えたのか? 学生時代に結婚を考えていた恋人に去られた青年はその傷を負ったまま帰らぬ人となった。物語は青年と小説家の出会いを描いた第一部から、消えた彼女の物語である第二部へと向かう。『乳房』『受け月』などの初期作品で人の悲しみを小説に昇華し、近年も『いねむり先生』など人生で出逢ったさまざまな人の物語を紡いできた伊集院静さん。彼はなぜこの小説を書いたのだろうか。

松井選手を追った一年間

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──物語は、小説家の「伊地知先生」が、ニューヨーク・ヤンキースに入団して一年目の松井秀喜選手を追うドキュメンタリー番組に関わっているところから始まります。伊集院さんは『松井秀喜 ベースボールの神様に抱かれて』(二〇〇三年)というドキュメンタリー番組で、約一年間にわたり松井選手に取材されていますが、この小説は実話がもとになっているのでしょうか。

伊集院 第一部はそうですね。しかし第二部はまったくのフィクションです。私のいままでの小説はフィクションではあるんだけれど、実際にあったことがベースになっていることが多い。「事実は小説より奇なり」という言葉が昔からあるように、人間がなすことは、小説家の頭で考えることをはるかに超えている。それが現実を生きるということだからね。

──では、この物語が生まれたのも、小説にある通り、ドキュメンタリー番組のディレクターから聞かされた話がきっかけだったのでしょうか。

伊集院 小説では「三阪剛」という名前になっていますが、ある青年から、学生時代に理由がわからないまま女性と別離をしたという経験談を聞きました。松井君を取材したのが二〇〇二年から三年にかけてですから、いまから十三、四年前ですね。『東京クルージング』を書き始めたのがいまから二年前だから、その間の十数年、その話を抱えて私は歩いていたことになります。
 小説家はいつもいろんなテーマや題材をかかえていて、それが果たして小説になるかどうかを考えているものです。才能があればすぐに小説に書けるんだろうけど、私の場合は、五年とか十年、これは小説になるかどうかというのを持ち歩くことが多いですね。

──三阪には、大学四年のときに二カ月間一緒に暮らしていた女性がいましたが、結婚したいと思うほど愛し合っていたのに、ある日突然いなくなってしまうという経験をしています。そして、それから十年以上経っても、その傷を癒やせないままでいる。

伊集院 世間では、そういうことはよくあるんですよ。みなさんが思っているよりも。ただ、普通は、女性は何か痕跡を残していく。「あなたには愛想が尽きた」とか書いた置き手紙を残したりね(笑)。でも彼の話では、その女性はまったく痕跡を残していかなかった。何もないってことはちょっとありえないから、はじめはつくり話じゃないかと思ったくらいです。でも、誠実な若者だからウソをつくはずがない。それで、いくつか質問をしたんです。彼女が以前住んでいた場所へは行ったの? と聞くと、もともと立ち退かなくてはならない物件で、彼女がいなくなった後で行ってみたら更地になっていた、と。過去についても口が重くて話したがらなかったというしね。謎だらけなんです。彼は、警視庁が発表している身元不明死者情報を見ていた時期もあったんですよ、とまで言っていた。

──三阪は伊地知先生に相談したかった。こう聞いています。「彼女はもう死んでしまっているのでしょうか。それともどこかで生きているんでしょうか」と。

伊集院 私はそのとき「その人は、今も、どこかで生きていて、君以外の人と暮らしています」と答えた。それは私の人生の経験から言ったんだけど、まず生きてるし、誰かと暮らしてるよ、と。彼に前を向いてほしかったという気持ちもあったしね。でも、それでよかったのか。そんな思いをずっと抱えていたら、彼が思いのほか若くして亡くなってしまった。それで、いつか書こう、短篇にするか長篇にするかと考えていた。新聞連載の話が来たので、長篇、それも最初のいきさつから書いてみようと思ったんです。

いままでやらなかった
三つのこと

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──『東京クルージング』がユニークなのは、伊集院さんが実際に見聞されたことをもとに第一部を書かれ、さらにそこから想像を膨らませて、消えてしまった彼女の物語を書かれていることです。この第二部を書かれるために十年以上の時間が必要だったのでは、とも思えます。

伊集院 美しい髪の長い女性がサンダルかなにかを履いて、堤防の先で東の海を見ている、という場面がふと思い浮かんだ。それがこの小説のそもそもの始まりだったんだけど、そこからがわからない。彼女が名前を呼ばれたのかどうかわからないけど、振り向いたとき、彼女がいなくなった理由のすべてがわかると思った。だけど、その状況がわからないんです。
 彼女に声を掛けたのが男なのか、女なのか、老人なのか、子どもなのか。肉親なのか、恋人なのか、アカの他人なのか。そこに車いすの男がいたりすると、話がつくりやすいわけです。だけど、物語をつくっていくときは、簡単にいくほうをチョイスしてしまうとダメなんです。ちょっと難しいな、ややこしくならないかな、というほうを選ぶ。なるべく難しいほうへ話を持っていったほうが、得てして良い方向へ仕上がることが多いんです。

──第一部は松井選手が実名で登場することもあってエッセイを読むような気持ちで読めたのですが、第二部は遠いところまで連れていかれたというか、次から次へとあふれてくる物語の渦に巻き込まれたような不思議な感覚でした。かといって、第一部がリアルで第二部がリアルじゃないかというとそうではないところが不思議で。

伊集院 角田光代の『紙の月』が出たとき、わりとすぐ読んだんだけど、角田に「すごくいい」って感想を言ったんですよ。リアリティを外してないって。小説のなかのリアリティっていうのは、実は、虚構をいかなるかたちにするかということですから。『紙の月』でいえば、主人公が銀行から大金を横領して逃げる。最初は何が面白いんだろうと思ったわけ。でも女がどんどん進んで行く。しかもそこにリアリティを感じるから面白い。虚構が現実を越えて行くと言うか。
『東京クルージング』でいえば、第一部は実際にあったことを書いたからリアルなんじゃなくて、一度虚構にしてるからリアルなんだよ。伊地知の一人称だからエッセイのように見えるけど、虚構につくり直すことでリアリティが生まれる。第二部は三人称だから第一部とは語り口が違うけれど、虚構をいかなるかたちにするかを考えている点では同じ。たとえば、ヒロインのヤスコが過酷な目に遭うんだけど──私も、こんな場面は書いたことはないなっていうくらい──そんな辛い場面を読者に読んでもらうためにはどんな方法論があるだろう、と考えた。そこで、ヤスコには会いたい人がいる。その人も待ってくれているはずだ。会いに行くことはできないんだけれど、その人が生きているということが苦しい状況のなかでの救いになる。その人と暮らした二カ月間が幸福だったことが、苦難に耐える理由になるんじゃないかな。
 小説の読者の大半は日々に満足している人ではない。何かを夢見たり、あこがれたり、探している人でしょう。もっと言えば、小説が必要な人は悲しみを抱いているわけです。小説を必要としない人間だって、生きるということは、切ないことのほうが多いはず。リアルだってことは、そこを捉えるということです。

──こんな場面は書いたことはない、とのことですが、『東京クルージング』には、そういう部分も含めてこれまでの伊集院さんの小説にはない要素が盛り込まれていると思います。ご自身ではどうお考えですか。

伊集院 この小説では、いままでやらなかったことを三つやったんです。一つは、一部、二部にして世界を分けたこと。一つは幽霊を出したこと。そしてもう一つは、奇跡を書いたこと。
 幽霊は話を進めるのに都合がいいから、いままで出したことがなかった。でも今回はこういうことがあってもご都合主義にはならんだろう、と。必然性があるから。
 奇跡を書いたのは、私自身が奇跡を目の当たりにしたから。二〇〇九年にワールドシリーズで松井秀喜がMVPをとることになったあの日の打席。私がこの十五年くらいで「ああ、これは奇跡だ」と思ったのは、あのときです。松井君にも何度も説明したんです。これはキミ一人の力ではできない。奇跡だよ、と。たとえば、あのときに、相手投手がペドロ・マルチネスじゃなかったらキミは敬遠されてた。マルチネスがキミに対して打たれると思っていなかったから勝負してくれたんだよ、と。
 ただ、奇跡ではなく彼の力だという部分もある。彼は毎日野球のスイングを欠かさなかった。これは言うほど簡単なことじゃない。野球のスイングってピッチャーを想定しながらやるんですよ。でも、打てないピッチャーは、一年、二年毎日練習しても打てるイメージがわいてこないんだそうです。ところがそれを三年、四年と続けると、今度会ったときには打てるかも知れないぞ、と思うようになる。松井君に聞いたら、デビューした最初の年から、イメージする何人かのピッチャーの一人にマルチネスが入っていたという。この次は必ず打ってやるぞ、と思っていたそうです。結局、彼は六年も七年もの間、今度会ったら打ってやる、と一人の男に対して思い続けた。そして打った。それは奇跡じゃない。
 でも、その打席がめぐりめぐって、ワールドシリーズの最終戦に来るというのは、彼の力だけじゃない。まさに奇跡です。だから、もしもここで彼が打てたら、何かが始まるかもしれない、という小説を考えてもいいと思ったんです。

出逢いという奇跡

──一部、二部で描かれている世界は、まるでパラレルワールドのように隣り合っているにもかかわらず、行き来ができないように感じました。しかし、その二つの世界が「奇跡」によってならつながるかもしれない。そう感じました。奇跡はこの小説の大きなテーマになっていますが、松井選手が起こしたような大きなものだけではなく、小さな奇跡にも目をとめていらっしゃいますね。一部のはじめのほうで伊地知先生が「人と人とが出逢うことは、人間がこの世の中で生きていることの中で、一番不思議で、一番魅力があって、そして何よりも、“奇跡”に近い出来事だと、私は信じている」と独白しているのが印象的でした。

伊集院 出会いってそういうものなの。私の母はもう九十六歳なんだけど、この母親の子でよかったなあ、と思うことがいまだにある。その一方で、子どもの頃には、なんでこのおやじの子に生まれちゃったかな、と思ったこともあるしね。でも、時間が経つと、やっぱり親子として出会ったのは運命だったんだな、と思う。
 前の家内との出会いもそうですよ。彼女はどうしても私と結婚すると言っていたけれど、周りはいい顔をしない。ほかにもっといい縁談もあったんだから。私も、自分のような雀荘とか鉄火場で待ち合わせするような人間でいいのかな、と思ったこともあったしね。でもそれも、彼女が亡くなったいま振り返ると、そういう運命だったんだろうなとしか言いようがない。だけどね、ちゃんとした女性は「運命だから」とは言わないからね。いちばん気をつけなけりゃいけないのは、昨日今日会った女が「私たち運命ね」って言うこと。ホステスがよく言うけど(笑)。

──タイトルの『東京クルージング』は、三阪とヤスコの出会いの場所ですが、すぐにこれだと思われたんですか。

伊集院 彼らが東京クルージングのアルバイトで出会ったということもあるけど、それだけじゃない。夜、東京湾をクルーザーに乗って出発すると、都会の灯りがまたたき始める。そのときの高揚感。何かが始まりそうな予感がするんですよ。その感じがぴったりだなと思った。

──伊集院さんはエッセイ集『大人の流儀』シリーズでも人気ですが、小説を書かれるときに違いを感じますか?

伊集院 伊藤整さんが面白いことを言っていて、小説のベストセラーは本来の小説を壊すって言うんだよ。私も小説を書き始めた頃は、売れるものを書かなきゃいけないっていう気持ちはほとんどなかったけど、いまは、なるたけ売れたほうが出版社も書店もいいだろう、と思うようになった。まあ、あたりまえの人になっちゃった(笑)。でもね、そうは言いつつ、まだこれから代表作というものが見つかるはずだ、と年に二、三日は思うことがあるんですよ。人生誤解だからね。どんな間違いから何が起こるかわからない。奇跡が起こることだって稀にあるんだから。

伊集院 静(いじゅういん・しずか)
1950年山口県生まれ。CMディレクターなどを経て作家に。92年に『受け月』で第107回直木賞、2002年に『ごろごろ』で第36回吉川英治文学賞をそれぞれ受賞。近著に『ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石』ほかがある。

取材・文|タカザワケンジ  撮影|ホンゴユウジ

KADOKAWA 本の旅人
2017年2月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

KADOKAWA

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