古事記のドキドキとワクワク 周防柳『蘇我の娘の古事記』刊行記念エッセイ

レビュー

9
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蘇我の娘の古事記

『蘇我の娘の古事記』

著者
周防 柳 [著]
出版社
角川春樹事務所
ISBN
9784758413015
価格
1,836円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

古事記のドキドキとワクワク 周防柳『蘇我の娘の古事記』刊行記念エッセイ

[レビュアー] 周防柳

 私が初めて『古事記』という書物の名を知ったのは、中学二年のときである。ある教師が授業を始める前に、「みなさん、たいへんな発見がありました」と前置きして、『古事記』の編纂者の太安万侶の墓が奈良の茶畑の中から見つかったと興奮ぎみに語ったのである。一九七九年の年明け間もない日だったように記憶する。
 むろん、中学生の私にはどうたいへんなのかなどわかるはずもなく、ふーん、と聞き流したのだが、じつはこのときまで『古事記』は偽書ではないかとの見方が根強く存在したのである。それが、安万侶の実在が明らかになったおかげで一挙に本物に格上げされた。そして、以後はその序文に記されていること―稗田阿礼なる舎人が語った話を太安万侶が七一二年に筆記し編纂した―が事実として人口に膾炙することになったのだ。
 そんなこともあり、私も比較的最近まで疑問を持つことなく、『古事記』は太安万侶と稗田阿礼のコンビによって成ったものと思っていた。が、その認識は五年ほど前に、ある説を知ったことで覆った。
 それは、『古事記』の序文は平安時代に何者かによって捏造され、後づけされたというものである。提唱者は古代文学研究の三浦佑之氏だ。氏によると、信憑性に疑問があるのは序文のみで、本文はむしろ七世紀後半までさかのぼる可能性が高いということだった。
 私はがぜん、興味を持った。もしそれがほんとだとすると、それこそたいへんなことではないか。『古事記』の編纂に関する情報は序文の中にしかない。その部分を切りはずしたら、この書物はまったく謎のかたまりになってしまう。作者が安万侶と阿礼でないならば、いったい誰なのか? どのようにしてつくられたのか? 七世紀後半という文字の黎明の時代に。
 これはきわめて小説的なテーマである、いつか書いてみたい―と、猛烈な好奇心に駆られたのであった。
 とはいえ、実際に執筆にとりかかったときには、後悔の念が胸をかすめた。なんとなれば、それはあまりにも難物で、わからないことだらけだったから。登山道のない険峻な山に素人が単身で挑もうとしているようなものである。やめておけばよかったかも……。私はうーむ、とうなった。そうして考えあぐねた末に、『古事記』という書物に対して私が考える定義のようなものを三つだけがっちりと据え置きし、あとは思いきって柔軟に創作することにした。
 その三つとは―。まず、「無常」ということ。次に、「兄妹愛」ということ。そして、「語り」によって伝えられた物語ということ。そのように腹を決めたら、あんがい自由に想像の翼を羽ばたかせることができた気がする。
 七世紀半ばから後半にかけては乙巳の変、白村江の戦、壬申の乱と大きな争乱が続き、この国の社会は激しく変動した。その常なき世にもっとも翻弄されたのはどんな一族であったろう? その一族の中にもし許されぬ愛に悩む兄妹がいたとしたら、どんな二人であったろう? また、その妹が語り部の語る幾多の物語を逐一覚えることができたとしたら、どんな肉体的特徴を持った少女であったろう? 
 この三つの結節点に現れたのが、本作の主人公コダマである。
 この空想は、無上におもしろかった。しかし同時に、たいへん勇気のいることでもあった。
 時代小説を書くときは、いつも好奇心と怯懦がないまぜになってドキドキする。そして、ワクワクする。

角川春樹事務所 ランティエ
2017年4月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

角川春樹事務所

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