幕末・明治を駆け抜けた川路利良という男の悲劇
[レビュアー] 縄田一男(文芸評論家)
たとえば、山田風太郎の『警視庁草紙』で、川路利良は、対西郷隆盛の立場からかなりの重要人物として描かれている。しかしながら、川路その人を主人公とした作品はなく、恐らく本書がはじめてであろう。
物語は、薩摩藩において士分以下の「外城士(とじょうし)」であった川路が、禁門の変で大将と凄腕の剣客を倒した手柄で、西郷に可愛がられ、士分=「城下士(じょうかし)」となる、出世物語としてスタートを切る。そして同時に川路の成長譚でもあるのだが、そこには常に一抹の淋しさがつきまとっている。
彼は、アーネスト・サトウから仏のジョゼフ・フーシェの話を聞き、情報戦を勝ち抜くためのシークレット・ポリスの必要性を感じる。それというのも、彼が懇(ねんご)ろにしていた小料理屋の女将お藤が、無理矢理、新選組の密偵にさせられ、何者かに斬られたことによっている。そして西郷の「善良な民を、政争に巻き込むこっはできもはん。そんためにも、こいからはポリスちゅうもんが要りもす」ということばに深く共感する。
そして、西郷の謀略家としての側面に一抹の疑念を抱きつつも、その護衛役=走狗としては終わらぬという野心がむくむくと頭をもたげはじめるのを抑えることができない。
川路は維新後、東京府大属(だいさかん)(後の警察)の大警視となるが、転機は、フランスへの渡航である。仏の警察制度を学び、これを自家薬籠中のものとして帰国するが、この間、西郷と大久保利通の間にすきま風が生じ、遂には西郷が野に下るという事態にまで発展する。
そして国家権力の強化がすべてに優先するという考えに凝り固まった川路は、かつての大恩人・西郷に牙をむくしかない。その荒らぶるさまは、川路という走狗の第二の飼い主・大久保すらも慄然とさせかねぬほどのものだった。
この一巻の主張は、自分が飼いならしたはずの権力に、実は飼いならされていたことに気づかず、権力の走狗としてひた走る男の悲劇であり、恐ろしさである。そして、これが国家の動向と結びついたとき、そこには屍の山が築かれることになるのである。
物語は、ラストに向けて、一見、一つの救いを用意しているかに見える。しかしながら、作者は巧みに伏線を張り……これ以上、書くのはよそう。
本書は、現時点における伊東潤の一つの頂点(ピーク)であり、作者自身、超えねばならぬ威容を誇っているのだ。