かつて存在した(かもしれない)あらゆるフィルムのために 三輪健太朗

レビュー

5
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署名はカリガリ

『署名はカリガリ』

著者
四方田 犬彦 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784103671091
発売日
2016/11/30
価格
2,592円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

かつて存在した(かもしれない)あらゆるフィルムのために 三輪健太朗

[レビュアー] 三輪健太朗(マンガ研究者)

 この本に何が書かれているかを説明するのはそう難しい作業ではない。しかし、その明快さゆえに生じかねない予断を封じるべく、評者は以下でしつこく警告したいと思う。さて本書の主演を務めるのは、目次に大きく名を連ねた三組四人の芸術家たち――「谷崎潤一郎」、「大泉黒石と溝口健二」、「衣笠貞之助」――であり、彼らの分析を通して、著者は副題の通り「大正時代の映画と前衛主義」について論じている。日本近代文学における「最初の映画青年の世代」と呼ぶべき谷崎は、この新興の芸術に若き日の情熱を傾けた。本書が詳細な分析を披露する短編小説『人面疽』(一九一八)は、映画のフィルムをめぐる怪奇譚という筋立てを持ち、実現はしなかったものの谷崎自身によって実際に映画化を目論まれた作品であった。また、混血作家として文学史上に特異な位置を占める大泉黒石が原作を提供し、当時まだ新進監督であった溝口健二によって映画化された『血と霊』(一九二三)は、日本における初の表現主義映画を目指したものだった。好評を得られず、その後の映画史において忘却されたこの作品には、迸る実験精神があった。さらに、新派劇の女形役者から監督へという、まさに近代日本に固有の経歴をたどった衣笠貞之助が、横光利一ら新感覚派の作家との出会いを経て、『狂つた一頁』(一九二六)を生み出した。それは、日本における表現主義映画の受容が「まごう方なき成熟点に到達した」ことを示す革命的作品であった。そして、彼らの諸実践に共通して刻印された署名こそが「カリガリ」――ドイツ表現主義映画の象徴である『カリガリ博士』(一九一九)――であるというわけだ。

 ただし、早合点してはならない。以上の要約から、本書を「日本映画におけるドイツ表現主義の影響」といった生硬なテーマの研究書のように誤解してはいけない。本書の狙いは、欧州の最先端で生み出された特定のマスターピースがいかに日本の作家たちに作用したか、といった直接の影響関係を云々することではさらさらないのである。たとえば谷崎の『人面疽』は、ドイツ表現主義に連なる先駆的作品たちから霊感を得てはいるものの、当の『カリガリ博士』が日本公開された一九二一年より三年も早く、そればかりか本国での製作にも一年先立っている。だから、本書における「カリガリ」という固有名詞は、あくまでも象徴的な符牒にすぎない。該博な知識を駆使して著者の四方田が論じてみせるのは、最新の潮流が世界を席巻し始めていたまさにそのとき、近代日本において同時代的に夢見られていたある種の想像力、いやむしろある種の運動――「前衛」と呼ばれる運動――そのものなのである。著者は綿密な作品分析を通して、「カリガリ」との同時代性を生きた四人の芸術家の姿を活写していく。

 だが、ここでも早合点は禁物である。本書を、谷崎、黒石、溝口、そして衣笠の営為を世界の芸術史に残すべき偉業として再評価する論争的歴史書のように誤解してはいけない。本書の狙いは、単に取り上げられた四人の芸術家たちを特権化し、遠く日本で育まれた映画的想像力の逞しさを称揚することでは全くないからだ。四方田の真の問いかけはこうである。一九世紀以前の芸術における流派は、「名作」によって「歴史という永遠の相に記憶されるもの」だったが、「ことアヴァンギャルドに関するかぎり、運よく時代を生き延びた作品と、運悪く忘却されてしまった作品の間には、実のところ本質的な差異など横たわっていないのではないか」。本書の後半部では、四方田自身も『狂つた一頁』をある種の到達点、記念碑的作品であるかのように記述し、称賛の言葉を惜しんでいないが、しかし書物全体を貫いているのはむしろ、「前衛を担う運動とはつねに闇夜に浮びあがる瞬時の花火」であるという厳しくも美しい認識なのである。

 しかし、なおも早合点は慎まれたい。本書の射程には確かに、芸術における前衛とは何か、近代日本において前衛は可能だったか、といった大問題が含まれている。だが、本書は決して理論を専らとする書物ではない。むしろ、紙幅が最も費やされ、読みごたえがあるのは、作品が製作されたコンテクストを踏まえた上での徹底したテクスト分析である。比較文学者かつ映画史家としての著者の面目を躍如たらしめるのは、まさにそうした分析の精緻さである。

 だが、この指摘もまた実は誤解を生むものかもしれない。なぜなら本書の大部分は、実際には映画化されなかった『人面疽』にせよ、フィルムが失われて現存しない『血と霊』にせよ、(『狂つた一頁』論が末尾に置かれることで印象が緩和されているとはいえ)存在しないフィルムをめぐる考察だといえるからである。一般的にいえば、映画をめぐる書物は大きく二つの方向に分けられるだろう。一方の極には、映画をあくまでも一回的な鑑賞体験として捉え、ときには記憶違いも厭わないという姿勢がある(たとえばスタンリー・カヴェルの『眼に映る世界』)。他方の極には、編集台やコンピュータによる徹底した画面分析によって、映画を見るという体験自体の意味を変容させる戦略がある(たとえば平倉圭の『ゴダール的方法』)。だがここにもう一つ、存在しないフィルムを闇からたぐり寄せてこの世に現前させ、忘却の淵から救い上げるという試みがあるのだ。著者は、一九一〇年代の谷崎の小説群のなかに、来る二〇年代以降の映画的想像力を見出し、「いまだに地上に存在していない、にもかかわらず存在しているべきである架空のフィルムについて言葉を重ねることこそ、この時期に特徴的な、映画的情熱のあり方であった」と述べている。翻って、かつて存在したかもしれない、にもかかわらず消え去ってしまったフィルムについて言葉を重ねることこそ、本書におけるこの稀代の映画史家の情熱のあり方に違いない。

 とはいえ、まだ付け加えるべきことが残されている。著者は、映画史の救護者として一貫してストイックたろうなどとはしていないからだ。本書の冒頭は、かつて著者が勤務先の大学で出会った一人の女子学生の逸話にはじまり、彼女の遠い親戚である和嶋せい――谷崎『痴人の愛』のナオミのモデルとなった女性――との対話の思い出に移り、そして谷崎が製作し、せいが葉山三千子の芸名で出演した『アマチュア倶楽部』なる喜劇映画(これまた現存しないフィルムである)の話題へと、次々に転じていく。この間、著者自らアンドレ・ブルトンの『ナジャ』を引き合いに出してみせるように、随筆とも私小説ともつかない奇妙な味わいの文体が続く。この自在な筆致の躍動は、本書の後半で精緻なテクスト分析が繰り広げられる際にも、なおわずかに残響している。その闊達な筆の運びに酔うことこそが、本書を読む最大の愉悦であると断言することで、迂回を重ねてきたこの書評を締めくくりたい。

新潮社 新潮
2017年2月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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