豊竹咲甫太夫は『「いき」の構造』が直方体で表されることに感動した

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豊竹咲甫太夫は『「いき」の構造』が直方体で表されることに感動した

[レビュアー] 豊竹咲甫大夫(人形浄瑠璃文楽座・太夫)

豊竹咲甫大夫
豊竹咲甫大夫

『「いき」の構造』の著者、九鬼周造は大学卒業後、八年間ヨーロッパ諸国で西洋哲学を学びました。しかし学べば学ぶほど、日本の美と文化に魅力を感じ、帰国後、ヨーロッパの「媚態」との比較において日本の「いき」考察します。
 私は、これまでいろんな意味で美意識としての「いき」と「粋(すい)」に興味を持っていました。たとえば、江戸の「いき」は吐く息に通じていて不要なものはため込まない引き算の美。それに対して上方の「すい」は吸う息に通じ、何でも取り入れる足し算の美だと教えられたこともあります。ところが、九鬼は、「いき」と「粋」は同一の意味内容を持つと論じています。
 九鬼は、日本の「いき」の特徴を三つ挙げます。一つは「媚態」、二つ目は「意気地」、三つ目が「諦め」です。つまり、日本の「いき」というのは、ヨーロッパ流の単純な媚態ではなく、張り=意気地と諦めを含んだ艶っぽさ=媚態であると規定するのです。
 九鬼が定義する媚態とは、一元的な自己が自己に対して異性を措定し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度のことです。要するに異性との関係を想定した色気のことで、その媚態が「いき」の大もとにあるから、西洋の「媚態」と「いき」は近いのですが、そこに「意気地」と「諦め」が加わると、その性質は大きく変わります。
 意気地とは相手に同化しないもの。九鬼は縦縞を「いき」な模様だと言いましたが、それは縦縞がどこまでいっても平行線で交わらないからだとしています。ですから男と女というのも、交わるようで交わらないという緊張感があるのが意気地。それが加わることで「いき」は媚態でありながら異性に対して一種の反抗を示す強味を持った意識になります。
 ここにさらに「諦め」が加わる。諦めというのは仏教的な意味の「諦念」で、運命に対する知見に基づいて執着を離脱した無関心です。ですから、この愛はいつまでも続くと思っているのは「いき」ではない。「やがて終わりが来る」いう諦めの気持ちを含んでいる媚態、それが「いき」なのです。その無関心が、あっさり、すっきり、垢抜けた感じを生むのです。
 こうした分析で、九鬼は色っぽいだけではなく、どこかに意気地と言われる張りがあり、さらに仏教的な諦観も含んでいるという非常に複雑な「いき」の構造を解き明かしていきます。
 九鬼がすごいのは、複雑な「いきの構造」を、直方体を用いて図化している点です。その直方体は、野暮と意気、渋味と甘味、上品と下品、地味と派手が上下対角に位置づけられ、結ぶ点によって「いき」だけでなく、「さび」や「雅」など日本の美意識や感覚の構造がわかるようになっています。
 日本人がなんとなく感じている感覚や美学というものを、西洋の哲学概念を使いながらも、私たちの日本語で分析し、構造化して解説しているという意味では、この『「いき」の構造』はオリジナルであり、かつ明晰な哲学の書だと言えます。

太田出版 ケトル
VOL.33 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

太田出版

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