【文庫双六】イギリスならユーモア小説も!――川本三郎

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【文庫双六】イギリスならユーモア小説も!――川本三郎

[レビュアー] 川本三郎(評論家)

 イギリスのミステリは中産階級の余裕から生まれたという。十九世紀、中産階級が土曜日の夜などに暖炉のそばでパイプをくゆらせながら読むにふさわしい。

 同様にイギリス独特のユーモア小説もまた中産階級の余裕から生まれたことは間違いないだろう。

 十九世紀末の初夏。三人の青年紳士(三人とも独身のようだ)が犬をお伴にテームズ川に繰出す。ボートを漕ぎ、曳き、川を遡る。

 優雅な川遊びになる筈だったが、そうは問屋が卸さない。荷造りの段階から大騒ぎになる。川に出てからはトラブルの連続。

 誰がボートを漕ぐかでもめ、小さなことからののしり合いになり、料理が得意と自慢する男の作ったいり卵はとんでもないシロモノになる。

 それでもユーモアとは、トラブルをも楽しんでしまう余裕から生まれる。笑いとは愚行を愛する精神に他ならない。

 丸谷才一の訳が素晴しい。若い頃、正直なところ丸谷才一の名は『ボートの三人男』の訳者として、またミステリ評論『深夜の散歩―ミステリの愉しみ』(福永武彦、中村真一郎との共著)の著者として知った。

 後年、氏の文庫の解説を仰せつかり、そんなことを書いたら「小説も読んでくれよ」と嘆いておられた。

『ユリシーズ』の翻訳者に『ボートの三人男』が面白かったというのは本当に申訳なかったが、この小説は丸谷訳によって、イギリスのユーモア小説の古典になったのではないか。

 丸谷さん得意の「むやみに」の語も出てくる。

 田舎の宿屋に泊ろうとしてどこに行っても満員で断わられる宿探し騒動。缶切りを忘れたためにパイナップルの缶詰をとうとう食べられない無念の悲劇。

 あるいはコールドビーフを芥子なしで食べる破目になる切歯扼腕。自らを笑いとばすおおらかさが快い。

 一八八九年の作。人がまだ二つの大戦を知らず、「愚(おろか)」という貴い徳を知っていたよき時代に帰れる。

新潮社 週刊新潮
2017年4月6日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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