私たちは絶対にしてはいけないことをしてしまった――それを思い出させるような極上の怪談。

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かわうそ堀怪談見習い

『かわうそ堀怪談見習い』

著者
柴崎 友香 [著]
出版社
KADOKAWA
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784041048313
発売日
2017/02/25
価格
1,650円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

なぜあなたは怪談に惹かれるのか

[レビュアー] 藤野可織(小説家)

 怪談はスリルだ。怪談と聞くと、わくわくすると同時に指先がすーっと冷たくなる。怪談はだいたい、意図的にであれ偶然であれなにかの決まりを破って、絶対にしてはいけないことをしてしまった人の話だから。そして、そういう話を聞くことによって、私もこれからなにかの決まりを破って、絶対にしてはいけないことをする気分を味わえるから。

 この『かわうそ堀怪談見習い』の主人公は小説家だ(だいぶあとになって判明する彼女の名前は、著者の名前にすごく似ている)。彼女が体験したり取材で聞いたりした奇妙な話が、〇からマイナス一を経て、二六までの断章の形式で連なっている。どう考えても知り合いにはいないのにたびたび話題に上る「鈴木さん」、買っても買っても古書店の棚に戻ってしまう怪談本、蜘蛛の恨みを買った中学時代の同級生、知らない人からの留守番電話メッセージ、天井がいやに低い木造アパート、老舗の茶舗に伝わるあやしい茶筒や古地図……。それらの話は、見間違いや勘違いや思い込みから生じたと納得することもできなくはないものから、あ、これはやばい、とぞっとするものまでさまざまだ。

 でもほんとうにやばいのは、「わたし」こと主人公だ。彼女の語り口はのんびりとしていて嫌みがなく、それでいて過不足を感じさせない明瞭さがあり、まるで一日の終わりにぬるくなりはじめたお風呂に浸かっているように心地がいい。そのせいで、私はちょっとばかり気がつくのが遅れてしまった。けれど、彼女は最初からずっとおかしかったのだ。

 冒頭では、すでに妙なできごとがちらちら見え隠れする中で、主人公について次のような情報が提示される。デビュー作が恋愛モノとしてヒットしたためにいつしか恋愛小説家という肩書きが定着してしまったことをきらって、これからは怪談を書くと決めたこと。同時に、三年ぶりに東京から郷里の街へ居を移したこと。

 あっさりとなにげなく書かれているが、考えてみればすごく変ではないか。主人公は、十二歳から三年前まで住んでいた区の、隣の区のかわうそ堀二丁目に新居を決める。しかし、家族の話はいっさい出ない。家族はもうこの土地にはいない、という情報さえない。当然のように一人暮らしをして、中学時代の同級生のたまみとしょっちゅう会っている。まるでたまみに会いに帰って来たみたいに。そもそも、どうして怪談なのか。主人公は、「怪談を書こうと決意したものの、わたしは幽霊は見えないし、そういう類いのできごとに遭遇したこともない。」と自覚している。それなのに、怪談を書く動機を、自分自身にすら説明しない。一度だけ、なぜ怪談なんだっけ、という疑問を抱くも、締切を明日に控え「今、そんなことを考えている場合ではない。」とすぐに切り上げてしまう。

 なんだっけ、誰だっけ、どこだっけ……。主人公はたびたびそう考え、取材で得た話と呼応し合うかのように、自分にもなにか忘れていることがある、という実感を強めていく。彼女がついに思い出したとき、そして家族もいないのに郷里に帰ってきたのも怪談作家になろうと決めたのも、ただ思い出すためのステップだったのだ、ということが理解できたとき、私はさっきまでぬるかったはずのお風呂が氷水かというくらい冷めきっていることに気がついたみたいに体が固まってしまった。

 ちょっといやな予感がする。私のところにこの怪談小説がやってきたのは、あなたがこの怪談小説を手にとるのは、なにか怖いことを思い出すためかもしれない。これから決まりを破って、絶対にしてはいけないことをする気分を味わおうとしている私やあなたは、すでに決まりを破って、絶対にしてはいけないことをしてしまっていてそれを忘れているだけなのかもしれない。私たちは、それを思い出すためにこの本のページをめくっているのかもしれない。この小説は、そんなふうにしてこちら側の安全と安心を破壊してかかる、極上の怪談だ。

KADOKAWA 本の旅人
2017年3月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

KADOKAWA

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