戦国外交の真相に迫り、異例のヒットを記録。――戦国史における一大事件の真相

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武田氏滅亡

『武田氏滅亡』

著者
平山 優 [著]
出版社
KADOKAWA
ジャンル
歴史・地理/日本歴史
ISBN
9784047035881
発売日
2017/02/24
価格
3,080円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

戦国史における一大事件の真相

[レビュアー] 平山優(日本中世史研究者)

 甲斐を本国に信濃・西上野・駿河を領国とし、さらに遠江・飛騨・東上野・東美濃・三河・北武蔵に影響を及ぼした戦国大名武田氏は、天正十年(一五八二)三月十一日、織田信長・徳川家康・北条氏政の侵攻を受け、滅亡した。最後の当主となったのが、武田信玄の四男勝頼である。武田氏の隆盛を実現させた信玄の死から、わずか十年後のことであった。このことから、江戸時代以来、武田勝頼は常に父信玄の業績と比較され、家を滅亡に追い込んだ亡国の将、暗愚の将と言われることが多く、今もこの評価は根強い。

 確かに最後の当主となった勝頼が、武田氏を滅亡させてしまった事実は動かない。だがそこで立ち止まり、なぜ勝頼は滅亡への道を辿ることになったのかを多面的に検討する冷徹な視座が必要である。この十五年ほどで、武田勝頼と武田氏はもちろん、それらを取り巻く、元亀・天正期の戦国史研究は活況を呈し、幾多の新事実と史料が発表されている。それらを踏まえて、武田氏滅亡の諸要因を分析しなければならぬ時期が来ていると思う。

 歴史を考えるうえで重要なのは、武田勝頼が当主の時代において、彼が政治決断、外交判断などをする際に直面していた諸情勢とその内容、及び構造を見極めることである。そのうえで、勝頼の判断がどのような事態を生み出し、それがまた如何なる課題を彼に与えることになったのかという、諸問題の連鎖と広まりを考察しなければならない。

 しかし注意すべきは、その判断を善悪や今日の価値で評価することだ。私たちは、歴史を現在の視点で、すなわち後知恵で裁くことには慎重でなければならない。歴史は裁くことも、悔やむことも、憎むことも出来ない。そのような価値判断は無意味であるばかりか有害ですらある。歴史は、価値判断で断罪することを求める対象ではなく、それは理解すべきものなのである。私たちは、歴史の裁判官ではないし、そう考えることは歴史への冒涜であろう。それは人物史であれ、事件史であれ、何事においても同じである。

 私は、武田氏の滅亡という戦国史における一大事件がなぜ発生したのかを探るべく、政治・外交・軍事など多方面からの検討を行った。それはその原因を、勝頼個人の資質のみに還元して完全に説明できるかということに、長年疑問を抱いてきたからである。

 主に長篠合戦後の七年間を詳細に調査し、勝頼にはいくつかの転機があったことを指摘するとともに、その複雑な経緯を叙述した。長篠敗戦後の毛利水軍と本願寺の勝利(天正四年)、足利義昭が主導した甲相越三国和睦構想(天正三年・同四年)、御館の乱をめぐる武田外交の成果と蹉跌(天正六年)、甲相同盟の決裂と甲佐同盟・甲芸同盟の成立(天正七年)、高天神城攻防戦(天正七年~同九年)は、とりわけ重要な岐路といえる。流動的で、めまぐるしく変転する諸勢力の動向の中で、勝頼と武田家中が直面した課題と、問題点とは何であったか、そして武田氏の判断とその後の動きは、どのような潮流を形作ったのか。これらを周辺諸国の動きに目配りをしながら記述することで、はじめて勝頼の選択と行動の背景が朧気ながら理解できるのではないだろうか。それは同時に、勝頼の蹉跌の背景を理解することにも繋がるだろう。

 近年の戦国外交研究は、戦国大名外交が当主個人の思惑だけで動かされるものではなく、常に家中の合意と後援が必要であったことを指摘している。このことは、勝頼外交もまた、当時の武田家中に支えられて実現したといえるのであり、必ずしも彼個人の見通しと独断とはいえぬものだったことを示唆する。実を言えば、武田氏の勢力圏は、天正八年末の段階が信玄時代よりも遥かに広大であり、北は日本海まで到達していた。それからわずか一年三ヶ月後にすべてが崩壊してしまう。とりわけこの最後の期間に、いったい何が起こったというのか。ぜひ拙著を手にとって確かめていただきたい。

 ◇角川選書

KADOKAWA 本の旅人
2017年3月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

KADOKAWA

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