なぜ「趣味」が社会学の問題となるのか――『社会にとって趣味とは何か』編著者・北田暁大氏インタビュー【前篇】

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なぜ「趣味」が社会学の問題となるのか――『社会にとって趣味とは何か』編著者・北田暁大氏インタビュー【前篇】

北田暁大
北田暁大氏

北田暁大+解体研[編著]『社会にとって趣味とは何か』。一見わかりにくいタイトルの本書は、いったいどんな書物なのか。北田暁大さんに訊いてみた。前篇・後篇、2回に分けてお届けする。

 ***

1◇「『サブカルチャー神話解体』解体」のプロジェクト

――『社会にとって趣味とは何か 文化社会学の方法規準』、タイトルだけ拝見するとえらく難しい本のように思えるのですが、ブックガイドなどもあり、理論編・事例分析編と分かれていて、学部生ぐらいを想定読者とした、とあります。なぜいま「趣味」を社会学の研究書、社会学入門書のテーマとして設定されたのでしょうか。もともとは宮台真司さんたちの『サブカルチャー神話解体』の批判的継承を目指していたと聞きましたが。

北田■はい、そうですね。もともとは科研費の研究で、「若者文化におけるサブカルチャー資本」みたいなのを、サラ・ソーントンの議論などを受けて分析していこうと考えていたのですが、念頭にあったのは宮台さんたちの『サブカルチャー神話解体』でした。宮台本は1993年に出されていて、もととなった調査から25年近くがたっている。だったら、宮台理論の現代における妥当性の検証と、ここ10年ほど蓄積されてきた社会関係資本の分析を、若者のサブカルチャーに即して考察していこう、というのが出発点でした。『神話解体』以降、日本に本格的にカルチュラル・スタディーズが移入されたり、東浩紀さんの『動物化するポストモダン』などが公刊され、93年当時とはだいぶ若者文化も、若者文化を分析する視点も変わってきた。このあたりで一度『神話解体』を対照項とする研究をしてみてもいいんじゃないか、と。ただそもそもの科研調査が08年~10年に行われたものですから、実はそろそろ研究開始から10年がたとうとしている。これはいくらなんでも学術論文だけではなく、一般読者に問うような本を仕上げなければ、ということで大急ぎで作業を進めました。遅れた責任はひとえに私にあるんですけれどね……。

――だいぶ北田さんが遅らせたと聞いています。本の企画段階で博士課程学生だった著者の多くが就職されてしまったと(笑)。その遅れの理由は、『神話解体』から25年後、ということと関係があるんでしょうか。

北田■いや、私の怠惰が原因といえばそうなのですが、というかそうです(笑)。ただ、内在的な理由は十分にありました。科研の研究ですから、もちろんある程度の成果の見込みを立てて研究計画を進めねばならないわけで、実際その点は期間内にクリアしていたのですが、データと向かい合いながら議論を重ねていくうちに、『神話解体』の検証という課題、サブカルチャー資本の探究という課題自体が、いまひとつピンと来なくなってきてしまったんですね。『神話解体』や『制服少女たちの選択』で提示された計量分析、つまりコミュニケーションに関する質問項目から類型化をし、その類型ごとの文化的趣味やサブカルチャー志向を、宮台的ルーマン解釈に沿って検証する、という作業はわりと早い段階、プレ調査の段階で行っています。簡単にいうと、分析手法としてはコミュニケーション項目から人間関係の志向性を因子分析で取り出し、そこでえられた因子得点をもとにクラスター分析を行い、人格類型をえる。理論枠組みとしては他者の振舞いに対する予期のパタンにもとづき、「期待はずれ」の場合の対応態度を、体験/行為というルーマンの区分を援用して類型化します。なんか人間関係の予期がうまくいかなかったとき、わたしたちは、それを「自分に帰属する(行為)」、「他者(環境)に帰属する(体験)」といった経験処理をし、そのうえで「自分の期待水準を低める/維持する」など様々な構えをつくっていくわけですが、こうした予期外れへの態度と対応によって類型を理論的に作り、計量データで得られたクラスターを解釈していく、というのが宮台さんの手法です。この点については宮台さんの質問項目をコミュニケーション研究の成果を踏まえて修正し、行為/体験、自己/他者という理論的区別を突き合わせてプレ調査の段階で確認してみました。結果はまあ、いまでも使えると言えば使える、というものでした。

――しかし今回の本にはそうした分析は載せられていません。

北田■はい。これは「解体研」――当時の北田研院生のメンバー――のひとたちと一緒に十分に考えた結果の選択です。簡単にいうと「こういう類型ができた。この類型にはこういう趣味の人が多くて、こういう行為パタンや政治意識がみられる」といったところで、それがいったいなにを説明したことになるのか、どんどん分からなくなっていったんです。少し考えれば分かることですが、他者への期待や予期と、それに対する自分の構えによって類型化すれば、「期待水準を低めて、自分の世界の状態維持を図る」「期待水準を低めず、世界状態の変化に対応する」とかいくつかの人格類型ができる。これは当たり前のことです。それをルーマンの理論を使ってわざわざ説明し、類型ごとの社会的特性を示したところで、いったい私たちは何がうれしいんだろう、という。それで、データはそのものとしても、分析の重点を「類型化」というのではなく、「類型」が理解可能になっているのはいかにしてなのか、というもう少し込み入った問いに踏み込み、あわせてサブカルチャー資本の考察のほうに重きを置くようになりました。

『神話解体』の発刊時期は、まさにバブルの最終時期。いまでいうところの「リア充/非リア」といった区別や、「オタク」的な行動様式の把握そのものが知見たりえた時代だと思うのです。しかし現代においては、そうした類型をなぞり返すこと自体が無意味とはいわないまでも発見的価値はないし、理論的にも寄与できるところはあまりない。ならば、このひとはああいうひと――たとえば「オタク」なら「オタク」――といった人びとの類型化が、趣味と関連していかにして可能になっているのか、そもそも等し並みに趣味というけれども、その場合の趣味というのは、比較対照可能なものなのか(国内旅行とアニメが同じ意味において趣味といいうるのか)。趣味によってひとを分類するのではなく、個々の趣味というものが人びとの分類においてどう機能しているのか、ということに関心を向けていきました。

Web河出
2017年4月25日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

河出書房新社

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