なぜ「趣味」が社会学の問題となるのか――『社会にとって趣味とは何か』編著者・北田暁大氏インタビュー【後篇】

インタビュー

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

なぜ「趣味」が社会学の問題となるのか――『社会にとって趣味とは何か』編著者・北田暁大氏インタビュー【後篇】

5◇文化社会学の理論と方法

――理論編ではブルデューの対応分析の使用法やハビトゥスといった理論概念の適切性など、相当抽象的・方法論的な議論が展開されています。

北田■そうですね、お話ししたような「界ごとの性格の違い」という論点を出していくうえでは、ブルデュー理論が前提としている方法論や理論を詳細に検討する必要がありました。ブルデュー自身は社会空間という包括的な行為空間を想定し、それと趣味実践などであらわされる生活様式空間の相同性を前提としており、かつ、社会空間でのプロットがさまざまな「界」に変換される形で表現されうると考えています。この理論的前提ははたして適切かどうか、というのは、文化社会学的に重要な問いです。幸い、2013、2014年に酒井泰斗さんがプロデュースしたブルデューの計量的手法を集中的に検討する研究会があり、そこでの瀧川裕貴さんや筒井淳也さん、川野英二さんの明快な分析、ブルデュー批判に深く感銘を受け、自分なりにかみ砕いて理解するように努めてきました。残念ながら瀧川さんの報告が公刊されなかったので、無理を承知で私なりに受け止めた瀧川報告のインパクトを、海外での理論研究動向も踏まえながら翻案しました。また、これも幸運なことにマイケル・リンチの『エスノメソドロジーと科学の実践』という本の書評報告をさせていただくことがあり、そのなかでリンチが展開しているブルデュー批判がどうも私の問題意識に近接しているように感じ、ブルデューのウィトゲンシュタイン解釈、エスノメソドロジー解釈について洗いなおしました。その成果の一部は『現代思想』に「他者論のルーマン」という論文として発表していますが、こちらは、彼のキー概念であるハビトゥスや、軌道などにかかわってくる問題で、そちらもあわせて考察してきました。ブルデューの学説史研究というよりは、「準拠問題に応じた統計的処理・手法選択の妥当性」にかかわる社会科学的な検討、「ハビトゥスやルールについての妥当性」という哲学的な検討を、一挙にやってみたという形です。そのなかで、ブルデューのいうような「界」ごとのハビトゥスや資本の変換という論点は経験的に維持しがたく、限定的に用いられるべきであろう、と結論しています。

――なんだか難しそうですね。

北田■いや、ぐたぐたと書いてはいますが、これは文化社会学という学的領域へのささやかな提言であると同時に、学部学生から修士位までのひとたちを対象とした教科書、文化社会学をしてみたい人たち向けの教科書としても位置付けているので、多くの若い人に読んでもらいたいと考えています。たしかに私の書いた理論パートでは統計用語やウィトゲンシュタインやサールのルール論などがでてきて、難し気な印象を持たれるかもしれませんが、たぶんドゥルーズとかデリダとかよりもはるかに平易な内容だと思います。使っている統計手法も初歩的なものですし、私自身計量社会学をやっているとは胸を張って言えるような人間ではないので、わからないところは無理して書かず、自分で理解できることをひとつひとつ確かめながら書きました。そんなに気構えるような本ではないと思いますよ。

――しかし、理論や方法論・手法論まで含んでブルデューと正面切って全力対決となると随分勇気があるなあ、と思ってしまいますが……。

北田■ああ、それはもう横綱の胸を借りてという感じです。専門的な学説史の方からみればぬるいところが多々あると思いますが、私としては「同時代の知の巨人」としてのブルデューに最大限のリスペクトをもって、可能なかぎりの批判と、それにもとづく継承可能性を示したつもりです。もう彼ほどの巨人は現れないでしょう。彼は亡くなってはしまいましたが、やはり同時代を代表する社会学者です。文化遺産のように扱うのは失礼にあたりますし、私たちの批判など意にも介さないかもしれません。しかしそれでも、ブルデュー自身に直球で勝負を仕掛けてみて、ブルデューとは異なる形で文化社会学の「方法規準」を出していきたかった。成功しているか否かの判断は読者に委ねるしかありませんが。

――「方法規準」というのは、趣味が可能にする場の個別性を踏まえたうえで、「界」の分析をする、ということになりますでしょうか。それはどのような学問的意味を持ちますか。

北田■「方法規準」というのはいくらなんでも僭越であったとは思うのですが、ようするに「界、文化資本、象徴闘争、掛け金」といった、ブルデューが腐心して創り出したセットを無前提に使うのは止めて、自らが立てた問いにちゃんと対応できるように「界」というものの個別性を調査しなくてはならない、ということです。サブカルチャー研究、ファンダム研究などで「界、文化資本、象徴闘争、掛け金」&インタビューのセットがでてくるとやや萎えてしまいます。それはむろんある時期までは重要なことだったと思うのですが、学問は少しずつでも共有可能な蓄積を上積みしていくべきであり、40年近く前の理論概念を当てはめて出来上がり、ということはないはずなんです。テクスト批評や文化分析であれば、文学研究や批評にはかないません。社会学という限定された学問領域において、次につながるバトンを創り出していくことが大切です。異論は多々あるかと思いますが、それはもちろん前提。ただ、新奇な概念やアイディアを投げだすだけでは社会学たりえませんので、一応私たちなりに受け取ったバトンを精査して、研究を進めてきました。「正統的小説は死んだ」「アニメは脱社会的である」「音楽のもたらす身体性が連帯を生む」……といったことは、本当は相当に調査・検討しないといえないはずなんですが、そうした言説が社会学者であるはずのひとからも出てしまう。ちゃんと限界を踏まえつつ「ふつうの社会学」をやろう、というのが本書の全体的な課題です。

文化社会学という領域は、もはや英語圏では計量的な研究が主流になっています。計量分析こそがよい、などというつもりも権利もありませんが――本のなかにはインタビュー調査や概念分析、エスノメソドロジーなども含みこまれています――重要な分析ツールではあり、「精神科学的人文学としての文化学」という像はいったん立ち止まって考えるべき時期にきているように思います。どこまで自分たちが目的を果たせているのかは自信がないのですが、ほんの少しでも問題提起ができればな、と考えています。

――『社会にとって趣味とは何か』の今後の展開はあるのでしょうか。

北田■そうですね、一通り分析はした、という充足感はあるものの、まだデータを活かしきれていないのも事実です。私の担当である「音楽」については、もっと踏み込んだ分析を提示したかったのですが、とにもかくにも現在の音楽志向は、一、二年差の枠内に収まる年齢層でも多様すぎて、おそらく多くの人が期待するようなアーティストやジャンルの分析というのは、きわめて困難です。宮台さんが試みたような音楽分析は相当なサンプルスケールがないとできないものです。ただ、遠からず南田勝也さんが音楽の計量分析を出されるということですから、それを見て後出しじゃんけんをしてみようかな、とは考えています……。まだまだファッションやマンガ、アニメ、写真、体育会的趣味とかで興味深い論点はあるのですが、追って成果を出していきたいと思います。私自身は似たような質問項目による日独比較調査をしていますが、いずれにしても文化社会学的な議論の自分なりのバージョンアップを図っていきたいと思います。ナショナリズムやレイシズムなどとの関連といったテーマ――『続・嗤う日本の「ナショナリズム」』といったところでしょうか――も長考に長考を重ねている段階で、いずれはちゃんと提示したい。そのための出発点を今回の本で設定した、という認識です。近々「等価機能主義」をめぐる久々の単著、社会学入門書も出す予定です。そこでも今回焦点に据えたブルデュー的論理は重要な意味を持ってきます。

解体研のメンバーはそれぞれの独自の道を歩んでいます。かれらと一緒に仕事ができたことは本当に幸運なことでした。今度は新しい世代、別の人たちと共同研究をしていくことになるでしょう。そのとき、問題意識がどのように展開するか、自分自身楽しみにしています。【了】

Web河出
2017年4月26日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

河出書房新社

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク