究極の恐怖を掘り下げる不気味でかわいい作品群 松浦泉

レビュー

4
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ウインドアイ

『ウインドアイ』

著者
ブライアン・エヴンソン [著]/柴田 元幸 [訳]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/外国文学小説
ISBN
9784105901325
発売日
2016/11/30
価格
2,160円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

究極の恐怖を掘り下げる不気味でかわいい作品群 松浦泉

[レビュアー] 松浦泉

 恐怖を司る脳の部位である扁桃体は、快楽の神経ネットワークと密接に連携しているという。本国アメリカでは「文学的(リテラリー)ホラー」とカテゴライズされているらしいブライアン・エヴンソンの短編集『ウインドアイ』を読む愉しみも、まずは緻密に織り上げられた恐怖表現がもたらす、ぞっとするような快感にある。

 たとえば、「アッシャー家の崩壊」から『サイコ』や『悪魔のいけにえ』、さらにはM・ナイト・シャマランの『ヴィジット』まで、アメリカン・ホラーのエッセンスを凝縮したような「グロットー」。父が死に、母が精神病院に収容されて、祖母に預けられる少年の物語である。母は祖母を「まともでない(ノット=ライト)」と表現し、祖母の近所に住む農夫も「近よらん方がいい」と警告する。家に向かう途中で車窓から目撃した、草に埋もれた十字架。農場のようには見えない、夜になっても闇に沈んだ家。テーブルの上には人間の歯の山。「グロットー」と名乗る青白い肌の男の子と、奇怪な裏声でしゃべる祖母が交互に現れ、少年は否応なく闇の領域に引き寄せられていく。時おり唐突に登場する意味不明な異国語が不穏な効果をあげ、周到な雰囲気作りと強烈なイメージ喚起力にぐいぐい引き込まれる。

 表題作の「ウインドアイ」は、視点人物の「彼」が少年時代に住んでいた家の描写から始まる。一読したところ普通なのに、なぜか落ち着かない文章が続く(冒頭の数行については、訳者の柴田元幸氏が「あとがき」で原文を引用しながら詳しく解説している)。妹との遊びもどこかが変だ。妹が家の壁板の背後に指を滑り込ませ、そこにある何か(いったい何があるというのか?)について兄が質問するのだ。やがて「彼」はおかしなことに気が付く。家の外側の窓が、内側よりひとつ多いのではないか。「彼」はふと祖母から聞いた話を思い出す。祖母が生まれた土地では「窓=ウインドウ」を「ウインドアイ」と言っていた。つまり窓とは「風が家の中を覗き込む目」なのだ……。居心地の悪い文章によってじわじわ醸し出されてきた不安が、耳慣れない言葉を介して、ひとつの恐ろしいイメージに結晶する。そして続けて驚くべき出来事が起きる。窓の謎を解明しようとする過程で妹が消えてしまい、パニックに陥った「彼」が助けを求めると、母親は言うのだ。「だってあんた、妹なんていないじゃない」。

 この足元の地面が急速に陥没していくような崩壊感覚こそ、エヴンソン的な恐怖の核心だ。トリガーになるのは知覚の変容である。「食い違い」では、夫と地方都市で暮らす女性がテレビを眺めているうちに、視覚と聴覚がシンクロしなくなる。「もうひとつの耳」の主人公は、野戦病院で目覚めると、誰だかわからない他人の左耳を縫い付けられている。イソギンチャクのように寄生した耳は、ある夜、彼にささやき始める。「ハロー、そこにいるのかい?」

 決定的な知覚の変容がすでに起きてしまい、登場人物が観察または鑑定の対象になっているとおぼしき作品もある。「赤ん坊か人形か」では、「赤ん坊」と「人形」という言葉の違いが理解できなくなった男が、セラピストと電話で会話を続けている。「溺死親和性種」の語り手は、「対話者」との面接を繰り返しながら、水難事故で亡くなった家族について、手紙によって初めて存在を知った弟の捜索について、混乱した記憶を供述書に綴っている。

 収録された25の短編は、ゴシックホラー、SF、寓話、探偵小説など多彩なスタイルで書かれ、扱われる題材も多岐にわたるのだが、そのほぼすべてにおいて、作者はある人間(または人工知能)の内部に入り込み、彼または彼女が獲得した新しいパースペクティブを内側から記述していく。そこでは記憶は断片化し、あるいは完全に失われ、時間はシャッフルされ、知覚と表象の境界が曖昧になり、生きているものと死んでいるもの、人間と非人間を区別することが難しく、そして常に、自分が自分であるという確信が揺らいでいる。

 戸田山和久の『恐怖の哲学』によれば、我々は身体の警戒システムを発動させる恐怖の原始的なシステムを使いながら、進化した表象能力によって、ありとあらゆるものを怖がるようになった。そんな現在の人間にとって最も恐ろしい事態は「自分が存在しなくなる=自己の同一性が失われる」ことだ。だとすれば本作は、全編を通して人間の究極の恐怖をテーマに展開しているのであり、面白くないわけがない。

 ここで描かれている世界は精神医学で「解離」と呼ばれる病理にきわめて近い、と指摘することもできるだろう。作者がそれに自覚的なのは、本作の前に刊行された短編集がずばり『遁走状態』と題されていることからも明らかだ。遁走は解離性障害の一形態であり、自己同一性と記憶を失って徘徊する症状を指す。ただし、解離は本来、強いストレスや外傷から逃れるべく引き起こされる症状であるはずなのに、『ウインドアイ』の登場人物たちは説明抜きでいきなり歪んだ時空のただ中にいる。彼らはトラウマを語らず、多重人格などの物語に逃避せず、一瞬たりとも自己憐憫にふけったりしない。むしろ空虚な日常に背を向けて、積極的に解離という強度を選択したようにすら見える。そして自分を見舞っている不可解な事態にとまどいながらも、必死に考え抜き、行動に移す。その行動が道義的・政治的観点から考えて正しいか否かは、また別の話なのだが。

 ここに、エヴンソンの小説が恐ろしいと同時に、途方もなく笑える理由がある。彼が創造する登場人物は不気味だが動機はあくまでも純粋で、「かわいい」のだ。終末後の崩壊した近未来世界で、民主主義の多数決原理を独自の解釈で貫徹しようとする「過程」の語り手を見よ。あるいは「タパデーラ」の、どれだけ身体を毀損されてもむっくり起き上がっては家の中に侵入し「俺、言われなくてもわかるよ。歓迎されてないんだよね」と述べるゾンビ少年や、「無数」で、偶然に入手した人間の片腕に魅せられ、収集を始めてしまったAIの戦慄すべきチャーミングさときたら。

 ジャンル小説と文学の境界を超え、アクチュアルなテーマを深く掘り下げつつ、驚嘆すべき作品群に結実させた本書は、間違いなく世界文学の最前線に位置しているのではないか。「不気味かわいい」ニュアンスを繊細に掬いあげ、文章の意図的なすわりの悪さまでを織り込んだ翻訳で読める幸せを、じっくりと噛みしめたいと思う。

新潮社 新潮
2017年3月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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