記憶の布地 小山田浩子

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縫わんばならん

『縫わんばならん』

著者
古川, 真人, 1988-
出版社
新潮社
ISBN
9784103507413
価格
1,760円(税込)

書籍情報:openBD

記憶の布地 小山田浩子

[レビュアー] 小山田浩子(作家)

 この正月、実家で雑煮を食べている時、祖母とおばが私の祖父の祖父にあたる人の話を始めた。「せんたろう」という名のその人はのらくら者だったのだという。「なんにもセンタロさん、いうて呼ばれとってでねえ」「ろくに働かんのに洒落者で」「ハンコほいほいついて」「人の借金まで抱えて」「家族が大苦労しとるのに本人はなーんにも、センタロさん」二人が「なんにもセンタロさん」と言う時の発音は慣れていて親しげだったが、祖母にとっては義祖父、おばから見ると曽祖父、二人ともセンタロさんのことはおそらく直接はそう知るまい。実孫である祖父はもう他界している。私とセンタロさんの間には遠い空白がある。私は彼のことをこれ以上知りようがない。それなのに、私は話を聞いて笑いながら、自分はもうセンタロさんのことを忘れないだろうな、と感じていた。空白を経た間柄の記憶が継承されること……その感慨は新年早々何か快くありがたく、私は『縫わんばならん』を読んだ時の暖かさを思い出していた。

 本作は九州の離島出身の一族が代々重ねてきた記憶の集積を描いた小説である。年代記、と呼べるかもしれないが少し違っていて、中心となっているのは記憶の問題である。

 まず描かれるのは九州の離島で八十四歳にして一人店を切り盛りする敬子だ。疲れの消えない体を布団に横たえながら彼女は「意識は明瞭な輪郭を保ったままで、自身気づかぬうち夢の中に滑りこんでい」き、現在の思いや悩みと過去の記憶を起点とした「ほとんど脈絡のない、断片的な景色や会話が順序も持たずに現れては消えるような」夢を見る。見ているというか、夢と知りながら夢を生きる。幼い若い敬子と現在の敬子が二重に存在しながら、彼女の幾多の記憶が、夢らしい矛盾を孕みつつ、複雑でありながら明晰とでも言うべき卓抜した筆致で描かれる。

 章が変わり、今度は多津子という少女が登場する場面となる。優しい母の眼差し、快活な客に懐く無邪気な多津子、不思議な動き方をする馬の耳……「こんなむかしのことをどうして思いだしたのだろうか。家に帰り着くなり、ベッドに倒れこむようにして横になった桐島多津子はそう考えていた。」多津子は敬子の妹だ。今や姉と同じく老女となった彼女は体調を崩した夫の救急搬送で慌ただしい日を過ごし、ベッドから動けないまま、しかし眠りはせず従って夢も見ず、様々な過去の記憶を鮮明に回想する。夫と出会った頃のこと、海の眩しさ……

 人の記憶は保持の仕方も内容も焦点があっている部分も異なる。時代を共にした者以外知り得ない空白も存在するし、自分しか知り得ない記憶もある。重なる時代を生きた姉妹の記憶にも、やはり空白や断絶が存在する。作者はその空白を際立たせるように、二人の老女の記憶を夢と回想という全く違うやり方で我々に提示してみせる。

 そして最終章では敬子多津子姉妹の兄嫁である佐恵子の通夜の場面が、佐恵子の孫である稔の視点で描かれる。多く親戚が斎場に集まり、稔はその会話の賑やかさ、明るさにいささか呆れながらも輪に加わる。血が繋がっている者いない者、老いた者若い者、互いに似ていたり似ていなかったりする体格や喋り方笑い声、人々は時間をかけて故人のこと、その周辺のとりとめのない記憶を語りあい笑いあう。

 最初とその次の章で示された通り、人の記憶には空白がある。世代が違えば、縁が遠ければ、しかし一堂に会した(故人も含めた)一族の記憶はどこかで繋がってもいる。彼らは、語ることでそれぞれ異なったやり方で保持してきた記憶を混ぜあいひとつの大きな記憶を作っているのだと稔は気づく。それは共有する一つの記憶を語って追体験し確認し安心する行為とは違う。「たとえ、それが自分には見えないとしても……むしろ、そのすべてが見えずに、隠れている部分をも含めて、彼らが笑ったり泣いたりしながら思いだす彼女の全体がそこにはあるのだということ、このことを、彼らは知っている。そのためにこうして集まったのだ。それぞれが記憶の断片を担って、持ち寄り、充たすために話しつづけているのだ」

 命のバトン、という言い回しがある。祖先から代々手渡されてきたバトンを握っている自分、これを誰かに受け継がねば決定的なものが途絶えてしまうのだというどこか悲壮な心細いような、いわば何かの先端に立っているイメージ、しかし本作を読むとそうではなくて、人という存在は大きな全体、一枚の布のような大きく広がるもの、の一部なのだと感じられる。親やきょうだいや義理の何やかにや、友達、知りあい、複雑に延びた糸が重なりあい織り上げられつつある布のごく一部、先端などなく、前にも後ろにも横にも斜めにも連綿と繋がっているものの一部だ。「そうたい、婆ちゃんはそこに居る。どこにでも、話しつづける限り……(中略)婆ちゃんはほどかれてしまった、また縫わんばならん、綴じ合わせんばならん。そうたい、そうたい……」稔は祖母の通夜を通してこの布のような全体の存在を発見し、その空白を、全体を構成する部分として埋め(縫わ)ねばならないと感じる。それは、おそらく、故人のためでありそれ以上に残された人々、自分自身のためであるはずだ。

 記憶し語りあい分かちあう営みが布地を複雑に織り上げ、自分と繋がる大きな流れを実感させる。そのことが人の心を暖める。力づける。通夜の席で人々が大声で笑っていたように、私がセンタロさんのことを身近な、忘れ得ぬ存在だと思ったように、そしてその感覚がとてもありがたいものだったように。場所も違うし方言も違うけれどでも、本作に描かれているのは私の、あなたのことだ。日本の、世界の、海辺で山で平地でどこででも、壮大な布地を受け継ぎつつ私たちが生きていると気づかされる。

 細やかでいきいきとした描写と豊かな方言の響きが作品全体を支えている。筆者は目を凝らし、耳を澄ませて何かを見つける能力、見つけた何かを小説として立ち上がらせる能力を持っているのだと思う。ある一族を描きながらその感覚を読者の記憶の在り方にまでつなげ、暖かい感覚をもたらすことに成功している。とても大きな力を持った小説だと思う。

新潮社 新潮
2017年3月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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