物語のすみずみを〈感覚〉が流れる 前田英樹

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スイミングスクール

『スイミングスクール』

著者
高橋 弘希 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784103370734
発売日
2017/01/31
価格
1,540円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

物語のすみずみを〈感覚〉が流れる 前田英樹

[レビュアー] 前田英樹(批評家・立教大教授)

 一昨年に、同じ著者による小説『指の骨』が出た時、まったく驚いた新人が出て来たものと思い、そのことを新聞の書評欄に書いたことがある。『指の骨』は、太平洋戦争中にニューギニア島で死ぬ兵士の話だが、小説は一貫してこの兵士の張りつめた独白で成っている。この独白は、話を語るとか、出来事を描くとかいうものではなく、負傷兵の異様な眼が光を放射して、戦地に流れる時間の重層を冷気ある言葉で照らし出す、そんなものだった。

 おそらく、文芸雑誌に寄稿するような多くの評者は、こういう才能の出現に戸惑ったのではないか。彼らは、ぼんやりとした今の代(よ)の雰囲気を、これまたぼんやりと描いて、ため息をつく、といった類の小説にすでに馴れきっている。三十歳代半ばの新人が書く戦記もどきの小説に、いったい現代に関わるどんな意味があるのか、そんな評も聞こえてきそうである。しかし、『指の骨』は、戦記小説などというものでは決してない。この作家が、歴史中の過去に材を取るのは、強く光り過ぎる爬虫類のような眼を少し遠ざけて、私たちを物語のなかで寛がせるためだろう。現代風俗の片々とした切り絵に馴れきった読者には、これは寛がせるどころの話ではなかった。

 それなら別口を、というのでもなかろうが、今回出た『スイミングスクール』は、作家の同時代を舞台にしている。本には、表題作のほかに「短冊流し」という短編が入っている。「スイミングスクール」で語り手となる主人公は、小さな娘を持つ三十代の母親、「短冊流し」では同じ年頃の離婚した父親で、これも小さな娘を育てている。ふたつの小説は、このふたりのいたって平明な独白で進められる。著者の強すぎる眼の光は、この本でも、注意深く、慎重にやわらげられ、穏やかに読者を誘う言葉の皮を被っている。特に「スイミングスクール」では、そうだ。

 この小説は、近所の水泳教室に通う小学生の娘とその母親との交流を物語の核にしている。しかし、話は、母の子供時代の回想へと繰り返し流れ込み、主人公とその母であった人との暮らしの記憶に合流しては、分岐する。主人公の子供時代は、彼女の現在の娘に重なり合っては離れる。ふたりの母親もまた、さまざまな長さの歳月を隔て、互いの心を暗い湖面のようにして映し合う。そこには、個体を超えた命の複雑な分流が感じられる。

 主人公の母は、娘が物心のつくかつかぬかのうちになぜか離婚している。このことが、ふたりの暮らしに投げかけ続けた謎めいた影を、主人公はいまだに背負わされている。しかし、暮らしの時間は片時も止まることなく、ゆっくりと流れて、気がつけば、すべてを変えている。そのなかで、大人は老い、子供は成長する。彼らの誰もが、その生のなかにはっきりと死を宿し、死の成就を秘かに待つかのように生きている。母娘の幸福と不安、恐れと愛(いつく)しみとは、絶えず静かに入れ替わって移り行き、時に強い喜びではじける。それを無常と呼ぶか、久遠(くおん)と呼ぶかはむずかしく、やはりいずれでもあるのだろう。高橋氏の筆力が、あるいは視力が描き出す澄んだ時間の重複は、まことに見事である。

 氏の視力がもたらすものは、知覚というよりは〈感覚〉である。知覚は、物を捉え、利用するのに必要な能力だが、〈感覚〉は、むしろ物に入り込まれ、物とひとつになって身体を皮膚の外に流出させる働きをする。その時、視覚は、聴覚とも嗅覚とも触覚とも完全に混じり合って、多重になった人生の時間を浮かび上がらせる能力になる。濃密な感覚を湛えた高橋氏の筆致は、疑いなくそういう能力を帯びている。一節を引こうか。主人公の家では「胡桃(クルミ)」という名のシーズー犬を飼っていた。その犬が死に、母娘は「胡桃」を街の火葬場で焼いてもらう。主人公の夫が休みの日、がらんとした遊園地でその夫と娘とがサイクル・モノレールに乗って遊んでいる。ふたりを下から眺める主人公に、こんな感覚が蘇ってくる。

「私は胡桃がまだ生きていたときの、骨の感触を覚えています。昼食後、胡桃はよく窓辺の座布団の上で、背中を丸めて午睡をしていました。陽光で温められた腹部に触れてみると、柔らかな体毛の中に、いくつかの小さな骨の感触を覚えました。丸みを帯びた滑らかな肋骨の感触、その骨の硬さとは別に、呼吸によって上下する筋肉や脂肪の柔らかさも、手の平に伝わりました。それから心臓の音も。五本の指先に、とくんとくんと、確かに生きている動物の拍動が伝わると、私は身動きが取れなくなることがありました。胡桃の小さな寝息を聞きながら、私自身の呼吸は止まっていたかもしれません。――」

 このような感覚は、そのまま娘の「ひなた」にも流れ込んでいる。胡桃を焼く時、ひなたは、「――焼いたら、胡桃が死んじゃうよ。」と言って突然泣き出す。「涙が、本当にぽろぽろという感じで、濡れた瞳から次々に溢れてきて、その顔を見て、私の頭はひなたで一杯になってしまい、胡桃に申し訳ない気持ちになりました」と母が語る。語っているのは、もちろん著者だが、その著者は、いったん死んで、主人公である母親の五官のなかで、そのすみずみを通る血流と共に、生き返っているかのようだ。ここにある、一種の強い変身作用は、『指の骨』にあった日本兵への完全な同化作用と同じものだろう。高橋氏には、そういう不思議を小説で可能にさせる、どこか異様な、天与の感覚機能があるように思う。

「短冊流し」は、離婚した父親が小さな娘「綾音」を、原因不明の突然の病で失う話である。娘は何日も病院のベッドで眠り続けるが、看護の父親が居眠りからふと目を覚ました時に、ゆっくりと目蓋を開く。父親は息を呑み、声を出せない。「綾音の仄暗く透き通った平坦な瞳孔に見入られ、指一本と動かせない」。驚愕し、凝視する父親の前で、娘は再びゆっくりと陽光に染まった目蓋を閉じてゆく。その意思は、心は、固く鎖され、綾音は、もう決してこちら側には戻ってこないだろう、父親は、はっきりとそう感じる。

 主人公の独白を読む私は、まさにその父親の声を、耳元で聴いたように感じた。作家の感覚は、これを書きながら、おそらく主人公の心と共に一度死んだに相違ない。そうでなければ、小説がこのような声を読者の耳元に直接響かせることはできまい。高橋弘希という若い小説家が、これまでどんな経験をしてきたか、どんな人柄か、私は何も知らないし、特に知ろうとも思わぬ。ただ、この人が負わされた天分は、なかなかに重く、それが作家の生身を引き裂くことにならねばよいがと、余計な世話だが願っている。

新潮社 新潮
2017年3月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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