新たな文学的コミュニケーションへ 福嶋亮大

レビュー

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

新たな文学的コミュニケーションへ 福嶋亮大

[レビュアー] 福嶋亮大

 曹泳日は「韓国批評界の異端児」(『ゲンロン4』所収の安天「訳者解題」参照)とも評される一九七三年生まれの文芸評論家で、柄谷行人と東浩紀の著作の韓国語訳者でもある。著者初の邦訳書である本書では、職業的惰性を一切感じさせないシャープで活気あふれる批評が展開されており、日本の言論界にも大きな刺激となるだろう。

 本書の主な論点は四つある。(1)カント=柄谷の「世界共和国」論に対応するゲーテの「世界文学」論を「統整的理念」とする立場から「韓国文学の世界化」(=韓国文学を世界市場/ノーベル文学賞に売り込もう!)の動きを批判する。(2)近代文学が英・仏・独・米・露・日などでのみ発達し、韓国では未成熟であった理由を明らかにする。曹によれば、近代文学はナショナリズムを経た帝国主義戦争と植民地の富を必要とするが、韓国にはその条件がなかった。(3)近代文学を「戦後文学」として規定する。例えば、日本では日露戦争の「戦後」に近代の主要な作品群が現れ、ロシアではナポレオン戦争の「戦後」に起きたデカブリストの乱が、プーシキンからトルストイの『戦争と平和』に到る近代文学の起源となった。(4)国民文学の条件を再検討する。曹は司馬遼太郎『坂の上の雲』における乃木希典と、李文烈『不滅』における安重根の描き方を比較しながら、後者は安重根の「神話」を温存することで、かえって韓国の国民文学=国民叙事詩の弱体さを証明したと見なす。

 こうして、曹は韓国における近代文学の「貧しさ」を逆手にとって、近代文学の成立条件を多面的に描き出していく。どれも面白い論点だが、特に(2)は刺激的である。曹が鋭く指摘するように、満韓と言いつつ満州の話ばかりしている夏目漱石の「満韓ところどころ」(一九〇九年)をはじめ、日本近代文学は総じて植民地の韓国には無関心であった。しかし、国家間戦争と植民地のもたらす精神、メディア、市場の拡張がなければ、確かに近代文学は成立/成長し得なかっただろう。その点で、漱石の満韓旅行は近代文学を支えるバックグラウンドへの旅でもあった(なお私見では、漱石の小説は近代の拡張性に対する防衛的・反動的な「自己限定」としてあり――内宇宙に没入した「夢十夜」や日露戦争をオカルト的な怪談にした「趣味の遺伝」等――、だからこそ紀行文「満韓ところどころ」の無防備さは特筆に値する)。

 逆に、国家間戦争と植民地所有の経験がないとき、近代文学は空虚なシミュレーション——曹の言う「歴史的必然性」なしに「移植」された表現ジャンル——に留まる。韓国近代文学は根無し草であり、だからこそ安重根の「神話」がその経験の空虚を埋めるように動員されるのだ。ちなみに、今や日本もさほど事情は変わらない。百田尚樹の『永遠の0』のように、戦争から疎外された現代の若者に、戦争をオリエンテーリングのように擬似体験させる「サブカルチャー神話」が市場で勝利しているのだから。

 神話がほとんどの文化に存在するのに対して、近代文学はむしろ特殊な歴史的環境に根ざしている。ちょうどリュミエール兄弟のシネマトグラフの発明が映像史のなかの「脱線」であったとも言えるように(ジャン=ミシェル・フロドン『映画と国民国家』参照)、近代文学やナショナリズムの発明も歴史のアクシデントという側面はあるのではないか? 曹によれば「一人の国民作家が誕生するということ、それは思ったより多くの前提条件を必要とします」。そして、この困難な発明を通じて、伊藤博文の暗殺よりも乃木希典の殉死を重視するという国民作家・漱石の文学的な価値転倒、つまり「現実に対する精神の優位」も生み出されるだろう。

 むろん、曹自身の狙いは、ありもしない「韓国近代文学」を捏造することにはない(と同時に「満韓ところどころ」や『戦争と平和』のような「近代文学」の読み方がとても柔軟で面白いことも、ここで付け加えておく)。曹はあくまで「理念としての世界文学」を掲げつつ、その基礎となるはずの「経験」の底にまで降りていこうとする。今後このプランはより具体化・精密化されていくだろう。「世界文学」という巨大な看板を掲げるのが妥当かは議論の余地もありそうだが、二一世紀の精神活動の幅をトータルに捉えるのに、新たな文学的コミュニケーションの発明が必要なのは明らかである。

 ここで私なりに本書への応答を一つ。「戦後文学としての近代文学」が植民地の所有に基づくとして、第二次大戦の「戦後」が世界的な脱植民地化の時代であったことを、どう考えるべきか? 日本の狭義の「戦後」にしても、林芙美子の『浮雲』(一九五一年)が描いたように、植民地/帝国の喪失から始まっている。しかも、その喪失は文学的想像力も変容させた。現に、純文学とサブカルチャーの別を問わず、戦後日本の作家たちは「閉鎖空間への没入」という内向的なモチーフを好んだが、この引きこもり的性格は、一九五〇年代の小津安二郎や成瀬巳喜男の映画にあった「帝国の残影」(與那覇潤)がいつしか消えていったことと切り離せない。

 日本近代文学の歴史が「満韓ところどころ」から『浮雲』に到るおよそ四十年間の、植民地/帝国との折衝のプロセスであったとして、そのサイクルは敗戦によって一度切断されている。では、より一般的に言って、植民地を失うと近代文学はどうなるのか? 植民地の所有が近代文学の条件だとしたら、植民地の喪失はいわば「ポストモダンの条件」だと言いたくもなるが、これは乱暴な立論だろうか?(とはいえ、ヨーロッパの「戦後文学」にもある程度通用する問題だと思う)。

 ともあれ、本書はさまざまな連想を誘う本であり、読者はこの論争的な書物を「思考の道具箱」として使うことが許されるだろう。むろん、それが可能なのは、思考の盲点をくっきりさせる批評的光学装置が曹泳日に備わっているからである。日韓の文学を世界文学から遠望するとともに、世界文学の僭称する「普遍性」に対しても韓国から鋭く疑義を投げかけること――、このコンテクストの移動が優れた批評の条件であることは言うまでもない。日韓の批評のより実り豊かな相互交流も予感させる、必読の一冊である。

新潮社 新潮
2017年3月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク