『羊飼いの暮らし』
- 著者
- ジェイムズ・リーバンクス [著]/濱野 大道 [訳]
- 出版社
- 早川書房
- ジャンル
- 産業/農林業
- ISBN
- 9784152096685
- 発売日
- 2017/01/24
- 価格
- 2,640円(税込)
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自然の試練と恵みを味わいながら
[レビュアー] 稲垣真澄(評論家)
本書を読んでたいていの人は、今の自分の生活はどう考えても本物ではないと自省を迫られるのではないか。大地からは遠く離れ、快適だが吹けば飛ぶようで、遠くで号令がかかるとすぐにも駆け出しかねない危うさ。そう、ここに描かれるのは、深々と大地に根づき、自然の試練と恵みを味わいながら生きるイギリス湖水地方の牧羊農民の物語だ。
――と書くと、反文明・反時代の声高な主張が聞こえてきそうだが、そうでなく、彼らは羊の市場価格に敏感な、現代社会と格闘して生きるごくふつうの農夫・家族・仲間たちである。
イギリス湖水地方といえば、湖と森と山の美しさで知られる世界の観光地。ナショナル・トラスト(自然保護)運動の聖地でもある。ワーズワースが詩で賛美したこと、産業革命の進展でロンドンの空気が急速に悪化したこと、そんなことが重なって十九世紀初頭、外部の人間がにわかに旅行者として湖水地方を訪れるようになり、今では観光収入を除いて同地方の経済は考えられない。
しかし湖水地方には、そんな外の人間の目には絶対に入らないものがある。曾祖父から祖父へ、祖父から父、父から子、子から孫へと代々伝わる、著者によると「五〇〇〇年以上」も続いてきたという営々とした暮らしだ。多くは牧羊を中心とする牧畜で、観光客は牧草地や石垣は見ても、住民たちの暮らしを見ようとしない。彼ら自身が、現実の生活から逃避するためにきたのだから。
本書では住民の暮らしの現実、つまり湖水地方に独特な牧羊の様子が、夏・秋・冬・春の順を追って紹介される。山(フェル)は共同放牧地になっており、放牧権者はそこに羊をヘフト(定住)させて育てる。低地には個人所有の牧草地や囲い地があり、毛刈りや出荷の時期になるとフェルから羊を下ろしてくる。低地だけで育てる人ももちろんいる。フェル用にはスウェイルデール種、ハードウィック種といった特別に頑健な羊が必要なようだが、さらによい羊にするには、何代にもわたって自家の羊群を品種改良せねばならない。ここでも必要なのは息の長い時間のようだ。
子供たちは父祖の仕事を継ぐことを誇りに思う。著者もまた当然のように牧畜の仕事を選ぶ。ただ、よくある父子間の行き違いで一時期別居を始めたときに、なんとオックスフォード大学に受かってしまう。湖水地方の農民の間ではまったく希有のことらしいが、卒業後には再び農場に戻る。
伝統、時間の継続ということと並んで、本書が現代人の心に響くのは、仔羊の誕生時の喜び、口蹄疫の羊を殺処分する悲しみなどを通じて、生命(生と死)に触れることの意味が、この上なく素朴に描かれている点もあろう。