『遠縁の女』
書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます
時代小説の枠を超えた これは自然主義文学だ
[レビュアー] 縄田一男(文芸評論家)
好きなことが得手とは限らない。
逆に、得意なことが好きとも限らない。
私にとっては、剣と学問がそうだった。
青山文平の中篇三作を収めた作品集『遠縁の女』の、表題作の冒頭部分である。
私も批評家生活をはじめて、三十年も半ばになるので、もはや文体に取り憑かれるなどということはないと思っていた。が、それが起きた。
この冒頭部分と、ここに続く文章の持つリズム。正にそれは漱石の作品の持つ呼吸ではないかと、奇妙な既視感に捉われてしまったのである。
物語は皆、武家の本分が武辺から算勘に変わって久しい頃―ちなみに本篇は寛政―を舞台としている。
主人公はそんな折、父から武者修行の旅を提案され、廻国の途に出る。この生死を問わぬ修行の描写は、五味康祐以来の迫力といっていい。そして五年。帰ってみると、彼を送り出したかつての友は、藩政改革の失敗の責めで、義父ともども切腹。残ったのは、自分も憎からず思っていた友の妻であり、この女によって物語は、すとんと落とされる。その落とされ方があまりに見事で、こちらにも冒頭の既視感があるため、この一篇の中には『草枕』も『三四郎』も『虞美人草』も入っているような気持ちにならざるを得ない。
そして表題作が漱石なら、巻頭の「機(はた)織る武家」は、藤村だ。
これも私の仮説にすぎないが、『家』に見られるような自然主義の流れを、今日、最も良く伝えているのは、こうした武家ものなのではないか―。作者はいう、かろうじて足軽ではない武家は、貧しさとしがらみの中で生きている、と。
しかも驚くべきは、この一篇はそれらのことどもを慎重に隠されたユーモアの中に描いているのである。妻が産褥で赤子ともども亡くなった入り婿は、嫁して来たヒロインに、「美濃紙一枚ほどの広さもない」自分の居場所を取られまいと汲々としている。が、あれよあれよという間に物語はヒロインに都合のいいように進み、最後には、長いあいだ秘してきた心の闇まで葬ってくれる。
この二作にはさまれた「沼尻新田」は、結界をつくることによって得られる父子二代にわたるロマンティシズムの結晶が描かれており、してみると、こちらは鏡花か―。
いずれにしてもこの一巻、時代小説という枠に縛るのはもったいない作品集であることだけは確かだ。