ブリューゲル 細部に宿る魂 森洋子(美術史家・明治大学名誉教授)

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ブリューゲルの世界

『ブリューゲルの世界』

著者
森, 洋子, 1936-
出版社
新潮社
ISBN
9784106022746
価格
1,980円(税込)

書籍情報:openBD

ブリューゲル 細部に宿る魂

[レビュアー] 森洋子(美術史家・明治大学名誉教授)

「森さん、あなたはいつまでブリューゲルを研究しているの」、と知人にいわれたのはおよそ30年前のことだった。考えてみると、美術史家のライフ・ワークとはある地域や時代の研究であっても、一人の芸術家にしぼることは少ないだろう。

 ブリューゲルの作品には世界中の人々が親しみをもつ主題が多い。諺、子供の遊び、謝肉祭と四旬節、農民の労働や婚礼の祝いなど、いずれも画面は「づくし的」な表現で満ちている。私はそれら一つ一つが気になる。《子供の遊戯》では幼い子が豚の膀胱で風船遊びをしているので、東京のレストランに豚の生の膀胱を注文し、膨らませてみた。女の子たちが羊の後ろ足の骨(距骨)でお手玉遊びしているので、パリの肉屋で一ダースの距骨を注文した(本書に骨の写真を掲載)。

 農民画の研究のために、ベルギーのボクレイク野外博物館によく“研修”に出かけた。その結果、ブリューゲルの絵に出てくる農家、納屋、パン焼き小屋、トイレ、三脚椅子、羊の毛刈り用ハサミ、紡錘棒などを博物館にある実物と対比してみたくなった。こうして6頁にわたり、ブリューゲル芸術における民衆文化を紹介できた。また編集者と一緒にブリューゲルと親交のあった知友たちの頁を作った。するとこの画家の関係者たちが我も我もと名乗りでて、自己PRするではないか。彼らにお詫びをしながら15人に絞ったのは心苦しかった。

ウィーン美術史美術館の「ブリューゲルの間」にて。左から《サウロの回心》《バベルの塔》《謝肉祭と四旬節の喧嘩》
ウィーン美術史美術館の「ブリューゲルの間」にて。左から《サウロの回心》《バベルの塔》《謝肉祭と四旬節の喧嘩》

 なんといっても力点を置いたのは、ウィーンとロッテルダムの二つの《バベルの塔》の比較である。ウィーンの塔は中世以来の図像学的な伝統を踏襲している。ロッテルダムの塔はどうか。ちょうど4月からの展覧会のために作られた、この作品のポスターを仕事部屋に貼って、朝晩眺める。細部に関しては超高画質の画像をパソコンで隅々まで見る。するとほとんどの研究者は指摘していないが、総煉瓦造りのこの塔の周辺には煉瓦窯が小さく、たくさん描かれ、もくもくと煙まで立ち昇らせているのを発見した。実はこの塔は「不可能を可能にする」人間の奇跡の塔としてルネサンス人の憧憬の対象となった。だが「バベルの塔を建てる」というオランダ語の諺は、「実現不可能な巨大なプロジェクトを始める」という諷刺を意味する。こうしたパラドックス的なロッテルダムの塔は、ウィーンのそれよりも同時代や後世の画家に大きな刺激を与えた。

 これまでのブリューゲル論で一番気になるのは、三段論法式の解釈である。例えば、16世紀のネーデルラントはスペインの支配下にあった。ブリューゲルは《十字架を担うキリスト》を制作。ゆえに画家は当時の民衆の苦しみを暗喩している、と。しかしこの聖書の主題はブリューゲル以前、他の国々の画家たちも描いていた。この作品の特色は「主人公の埋没」「嘆きの聖母マリアの突出した存在」「群衆一人一人の個性的な動き」などである。作品に語らせるブリューゲルの力にもっと注目してほしい。

新潮社 波
2017年5月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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