北村薫×柳家喬太郎「漱石のうどん屋」 夏目漱石没後一〇〇年記念落語会

対談・鼎談

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北村薫×柳家喬太郎「漱石のうどん屋」 神楽坂ブック倶楽部イベント詳報!

噺家・柳家喬太郎さんと作家・北村薫さん
噺家・柳家喬太郎さんと作家・北村薫さん

漱石没後一〇〇年記念落語会で、当代きっての売れっ子噺家と落語好きの作家が(やや漱石そっちのけで)語り合った一夜!

於・紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA

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北村 喬太郎さんとはこれまで対談を二度していますが、一番面白いところは決まって活字にならないんですよね。

喬太郎 と言いますか、いろんな事情で活字にできない(会場笑)。

北村 さて今回はどうなるかですが、会場にいらっしゃるみなさんはノーカットで聞くことができますから、心配なさらなくて大丈夫です(会場笑)。今夜は漱石が最後に聴いた噺ということで、さきほど喬太郎さんは「うどん屋」を演(や)られたわけです。この噺を演ってくれと頼まれた時、どうお思いになりましたか?

喬太郎 もちろん持ちネタの中にはありまして、冬には僕もよく演る噺ではあるんです。でも、「うどん屋」だったらいい人が先輩にも後輩にも山ほどいらっしゃるので、「何もオレの『うどん屋』を聴かなくてもいいだろう」とは思いもしたんですが、まあ、目先のゼニに目が眩(くら)んで(会場笑)。

北村 冬のいい落語って、たくさんありますが、その一つですよね。

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「うどん屋」粗筋
冬の寒い夜、屋台のうどん屋が売り声を張りあげながら、町を流している。博打場からの大量の注文や、大店の若い者たちがこっそり暖まろうという場合など、小さな声で呼んでくる客の方が得てして商売としてはおいしい。ところが最初の客はただの酔払い。婚礼帰りの様子で、「おめえ、仕立屋の太兵衛ってのを知っているか。ひとり娘のミイ坊が十八で、今晩、同じ商売(しょうべえ)仲間から婿をとって」と長話を始め、同じ話を繰り返した挙句、世辞を言いながら付き合ったうどん屋に「うどんなんか嫌(きれ)ェだよ」と何も食べずに去っていく。うどん屋が気を取り直して、また売り声をあげると、今度は女が呼び止めて、「うどん屋さん」「へい」「子どもが寝たばかりなんだから静かにしておくれ」。静かに裏長屋なんか歩けるかと、今度は表通りに出たら、ついに小声で「おーい、うどん屋ァ」と呼ばれ、うどんを注文されるが……。

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喬太郎 実は「うどん屋」は僕にとって大事な噺なんです。うちの師匠の柳家さん喬が大事にしている噺でもあるんですね。漱石が聴いたのは三代目小さんですが、うちの大(おお)師匠(師匠の師匠)の五代目小さんが十八番にしていました。大師匠の時代ですと、十代目金原亭馬生(きんげんていばしょう)師匠も十八番にされていた。現代では小三治師匠も十八番にしていらっしゃいます。

 で、大師匠が亡くなった時、「小さんのこの噺が一番好きだ」というような記事も出ましたが、うちの師匠は「五代目小さんは、とにかく『うどん屋』」なんですよ。酔払いの「目出度(めでて)ェなあ、うどん屋ァ」という、あの一言で、「酔払いの人生も、ミイ坊も太兵衛たちも全部がバアーッと見えるんだよ、師匠の『うどん屋』は。あそこで涙がにじむような気がするんだ」と、師匠は言っていました。

北村 確か喬太郎さんは、去年亡くなった柳家喜多八さんから「うどん屋」を教わったんですよね。

喬太郎 そうです。喜多八兄(アニ)さんから教わって、ちゃんとOKを頂いて、演り始めたのですが、うちの師匠がどこかでネタ帳を見たんですかね、「お前、最近『うどん屋』演ってんだろ?」「ええ、演ってます」「また、あの大事な噺を習いもせずに」「習ってます、私!」(会場笑)。「喜多八兄さんにきちんと習いました!」「嘘つけ」。どんだけ信用ないんだと思いましたけどね、それだけ師匠にとっては大事な噺(会場笑)。ですから、今回「うどん屋」を演ってくれと言われたのは、個人的には嬉しいお話でした。

 しかし、今日はポスターなどには演目を隠して「漱石と落語の夕べ」とだけ書いてあるから、どうも漱石が出てくる新作落語を演るんじゃないかと思われていたお客様もいらっしゃったんじゃないかと……。さっき高座から見ていると「なんだ、『うどん屋』かよ」という顔をする人が……悪かったよ、おれの「うどん屋」で!(会場笑)

北村 喜多八さんに教わったというのは何かわけがありますか?

喬太郎 うちの師匠は「うどん屋」をネタとして持ってはいるけど、ほとんど演らないんですよ。ちょっと畏れ多い、というのが自分の中にあるのだと思います。もっとも、いまの柳家の重鎮クラスはみなさん「うどん屋」をお演りになりますから、本来はそういった大看板とか大先輩に習いにいかないといけないんですが、「ある程度身近で習いやすくて、本当に腕のしっかりした人に教えてもらう」というのは、僕たちにありがちなことなんです。つまり、市馬兄さんとか喜多八兄さんとかにお稽古をお願いしがちですね。「うどん屋」もやはり喜多八兄さんのを実際に聴いて、「わあ、いいなあ」と思って習いに行きました。

北村 さっきの「うどん屋」は客席で聴かせてもらいましたが、終わった後で、ある女性に「どうでした?」と訊ねると、「(小声で)うどんがおいしそうだった。うどん屋さんが可哀そうだった」と。

喬太郎 そうなんですよねえ……そこが僕の〈まだまだ〉なところなんですよ。あの噺をお聴きになったお客さんに「うどん屋が可哀そうだ」と、まだ僕は思わせてしまうんですよ。前にも似た感想を頂いたことがあって、「あの酔払いが憎らしい」と。まだまだ僕の「うどん屋」はその域を出ないんです。うちの師匠が言うような、つまり五代目小さんがたった一言で酔払いやミイ坊たちの人生を浮かび上がらせたような「うどん屋」ができていれば、決してあの酔払いは憎らしくないし、うどん屋は可哀そうじゃないんですよ。死ぬまでにそんな「うどん屋」をできるところへ行ければいいのですが、僕のはまだちょっと生々しいんですね。

北村 うどんがおいしそうだったという意見はどうですか。うどんと蕎麦の食べ方の違いなどというのは実際……。

喬太郎 まあ、「うどん」って言ってますからねえ、蕎麦には見えないでしょうけどね(会場笑)。テクニックとして、蕎麦の時より多少音を太くするとかはやっているつもりですが、それこそ目白(五代目小さん)の言った「狸を演る時は狸の了見になれ」と同じで、演者もうどんを食べてないといけないんですよ。演者が蕎麦を食べていたら、蕎麦に見えちゃうと思うんです。お客様から見て、旨いうどんかマズいうどんか分かりませんが、一応あそこではうどんを食べているつもりではいます。途中、うどんに入ってる練り物も食べているつもりです(会場笑)。

北村 喬太郎さんは「時そば」のまくらによくコロッケ蕎麦の話をされますね。私はあのまくらが大好きで「また聴けちゃった」と喜ぶクチですが、「うどん屋」には特定のまくらはないんですか?

喬太郎 ご存じない方のために言いますと、コロッケ蕎麦という文字通りコロッケの入った安っぽい立食い蕎麦についての漫談ネタがあるんですが、あれは動きが大きいし、カラーが違いすぎるので、「うどん屋」のまくらには向かないんですね。「時そば」だと、あの漫談の勢いのまま行けるんですけど。

北村 「時そば」はいろんな落語家の方が冒険というか、新しいくすぐりを入れたりします。一方、「うどん屋」にはそんなことがあまりないですよね。ちょっと動かせない噺なのでしょうか。

喬太郎 動かせないというか、演者が「これは動かしたくない」と思う噺なんでしょうね。「よし、動かしてみよう」と思って取り組む噺ではない、と言いますか。

新潮社 波
2017年5月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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