南北朝時代が新たなブームとなった今、古文書が語る尊氏像の迫力

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足利尊氏

『足利尊氏』

著者
森, 茂暁, 1949-
出版社
KADOKAWA
ISBN
9784047035935
価格
1,870円(税込)

書籍情報:openBD

古文書が語る尊氏像の迫力

[レビュアー] 清水克行(日本史学者・明治大教授)

 いま南北朝時代が、歴史ファンのあいだで静かなブームなのだそうだ。数年前、『足利尊氏と関東』という拙著が多少話題となり、私も「足利尊氏」を扱ったテレビの歴史番組に何回か出演することになった。ただ、戦前に回帰するかのような不穏な言説が巷に溢れている昨今を憂慮して、そのときも一部の担当ディレクターから尊氏の評価について視聴者から抗議が来た場合の対処法を事前に尋ねられた。戦前は天皇に弓をひいた「逆賊」として、その名を口にすることも憚られたような人物なのだから仕方ないのかとも思ったが、放送後、けっきょくテレビ局にはただの一件の抗議も寄せられなかった。それどころか、逆にネットの人々は「八方美人で投げ出し屋」な尊氏の性格に共感したり呆れたりしながら、それなりに新たな「キャラ」として尊氏を受け入れ、「祭り」を楽しんでいるふうだった。

 戦前の皇国史観が遠い過去のものとなったことで、尊氏に妙な先入観を持つ人がいなくなったということなのだろうか。いま、戦国や幕末のお馴染みの歴史モノに飽きた人々のあいだで、南北朝が新たなブームになりつつあるのだという。マンガやゲームやネット上で、マニアックな南北朝の武将の名前を見かけることも少なくない。どうやら、南北朝の評価をめぐって、時代は大きく転換しつつあるようだ。

 そんななか、満を持して、日ごろ尊敬する森茂暁さんの新著『足利尊氏』が刊行された。森さんは南北朝時代前後の政治史研究の正統派で、現在、この分野では最も信頼されている研究者である。また、南北朝人気がまだ低調だった一九八○年代から、『皇子たちの南北朝』『太平記の群像』『佐々木導誉』『後醍醐天皇』『足利直義』などの人物伝や、『建武政権』『南朝全史』『南北朝の動乱』といった時代概説などを多く刊行し、一般向けに良質な研究成果を分かりやすい文体で発信し続けてきた功労者でもある。

 その森さんの新著『足利尊氏』の一番の特色は、何といっても膨大な関連文書の収集に支えられた叙述の迫力にあるだろう。尊氏だけでも千五百点、嫡子義詮千七十点、後醍醐天皇八百点という途方もない文書量に裏づけられた説得力は、他の類書の追随を許さない。森さんの筆もいつも以上に自信に満ちている。たとえば、後醍醐天皇への叛逆については古来評判の悪い尊氏だが、本書によれば、味方の組織化については、ライバル護良親王の文書発給傾向と比較して、尊氏は「積極的な護良に対して、むしろ消極的とも思える」のだという。また、「尊氏が(楠木)正成を名指しして『凶徒』と称した事例が全くみられない」とも指摘する。尊氏の後醍醐天皇に対する叛逆や正成との訣別は彼自身にとっては不本意なものだったということは、これまでも語られてきたことだが、大量の発給文書の数量的な分析から導き出された評価には、やはり何より万鈞の重みがある。

 極めつきは、尊氏と弟直義の関係。様々な困難をくぐりぬけ、二人三脚で室町幕府を創業した、この二人の兄弟は、皮肉にも晩年に敵対し、絶望的な死闘を演じることとなる。しかし、本書の分析によれば、「尊氏と直義の軍勢催促状をみると、互いに敵対した時期においても相手を退治・誅伐の対象として名指ししてはいない」のだそうだ。そこから森さんは「かつての兄弟愛がなお底流していたとみるべきなのであろうか」と、ささやかな感慨を書き添える。無味乾燥に思える古文書から血の通った「歴史」が紡ぎ出された瞬間だ。著者の技量もあってのことだが、読者はあらためて古文書というものが歴史学に果たす大きな力を印象づけられることだろう。

 もはや尊氏が「逆賊」か否かという議論は過去のものとなった。本書を得て、南北朝時代研究はまた一つ新たなステージに至ったようだ。

 ◇角川選書

KADOKAWA 本の旅人
2017年4月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

KADOKAWA

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