『服従』は新たな視点で読み直されるのを待っている

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服従

『服従』

著者
Houellebecq, Michel, 1958-大塚, 桃
出版社
河出書房新社
ISBN
9784309464404
価格
1,012円(税込)

書籍情報:openBD

『服従』は新たな視点で読み直されるのを待っている

[レビュアー] 関口涼子(詩人・翻訳家)

2017年4月22日、フランス大統領選挙の前日の午後、 わたしはパリ12区の国立移民歴史館にイタリア移民史展を観に行こうとしていた。すでに3回の大統領選挙をパリで過ごしている自分にとって、選挙の前日だからといって何が変わることもない、通常の土曜日のはずだった。
メトロの5番線をバスティーユで降りて、8番線に乗り換えようとしているときのことだった。地下階段の下、ホームの手前で人だかりがしている。何が起こったのか、様子を見ようと降りて行きかけた時、口を布で塞いで階段を深刻な顔で足早に上がっていく何人かの人とすれ違うと同時に、化学薬品のような匂いが鼻をついた。あ、いけない、と思うよりも先に、一緒にいた友人はわたしの手を引っ張って通路を走り出し、わたしも転びそうになりながら彼女について一番近い出口に向かった。ショールで顔を覆い、視界は妨げられていたものの、わたしたちと同時に、通路をものすごい勢いで走って行く人たちの足音が左右に聞こえた。
そうしている間にも催涙ガスを吸い込んでしまったらしく、バスティーユ広場に面した出口を上りきった時には、涙と鼻水でわたしの顔はぐしゃぐしゃになっていた。
選挙時には慣例として行われないことになっている労働組合のデモが今回例外的に選挙前日に行われていたが、警官との衝突で催涙ガスが撒かれたのだろうか。何が起こっているのかはっきりしないままにとりあえず友人のアパートに向かって歩き出す。通りのいたるところには「投票より反乱を」「金持ちに戦争を仕掛けよ」「政治など糞食らえ」などと赤いスプレーで殴り書きされている。土曜日だというのに通行人をほとんど見かけない曇天の大通りには、今までに見たことのない不穏な空気、異様な緊張感が漂っていた。

直前になるまで、3割近くの有権者が誰に投票するか決めていなかったフランス大統領選挙の初回投票は、その3日前にパリのシャンゼリゼ通りで警官三人の死者を出した銃撃事件もあって、厳戒態勢の中行われた。選挙当日は、前の日とはうって変わって好天に恵まれ、家族連れも街中を多く散歩する、和やかな雰囲気だったが、開票時間が近づくにつれ、街に駐車していた警察車は防御網を張り始め、通りからはやはり人の姿が消えたのだった。

2022年にイスラーム政党が政権を握る様を描いたウエルベックの『服従』は、一見、今回の大統領選挙とは異なったシナリオに思われるかもしれない。確かにイスラームは、移民対策や治安の問題などで国民戦線に目の敵として取り上げられることはあったが、ムスリム代表の大統領候補者が出てきてマスコミを賑わすことはなかった。
それでいながら、『服従』を読んだことがある人は、今回の大統領選挙キャンペーン中、小説中の光景をついあれこれと思い浮かべたのではないだろうか。『服従』の中では投票所が襲われるというエピソードがあるが、わたし自身、投票日に、このシーンをつい思い出さずにはいられなかった。
ウエルベックのこの小説が今回の大統領選をどこかなぞっているように、またはこの5年後の2022年の結果を予測しているように思われるのは、候補者の政党がウエルベックの予想と重なっているからではない。彼の小説の基調をなしている、フランス社会の「恐怖」、「不安」、「諦め」そして「慣れ」が、今回の大統領選中、現実にも如実に表れていたからだと思う。

考えてみれば、2002年、初めて国民戦線(当時はマリーヌ・ル・ペンの父親のジャン=マリ・ル・ペン)が、事前の予測に反し、社会党のリオネル・ジョスパンを排して決選にまで残った時には、フランス人の多くはショックを受け、絶望的な状況だと嘆きあっていたのだった。「Vote utile」(戦略投票)という言葉が常ならぬ切実さを持って使われたのもこの時だったのではないか。シラク支持ではない左翼の有権者たちも、この時には、ル・ペン勝利を何としても阻止すべく、自分たちの信を曲げてシラクに投票し、彼は8割以上の票を獲得して当選したのだった。
大統領選挙が、選挙というよりもル・ペンを受け入れれるかどうかの国民投票の体をなしてきたのもこの少し前からだったと思う。国民戦線に反対する有権者は、ル・ペンが決選投票に進出しないような投票をするべく考慮している。
それがもっとも顕著になったのが今回の大統領選挙だったと言えるだろう。もしかしたら社会党に票を入れていたかもしれない有権者の一部は、社会党のブノワ・アモンが決選に残りそうもないと分かると、マリーヌ・ル・ペンに決選で勝つ見込みが濃い候補者の値踏みをしだし、また、中道・独立系のエマニュエル・マクロンはどちらにしても決選投票への切符を手にするだろうと踏んだ有権者は、せめて初回投票は左翼の力を見せつけようとメランションに票を入れる。単純に、支持している候補者に票を入れるというよりも、大統領選初回投票は、有権者が各自、誰が通ればどのようなリスクがあるか、どのような勝算があるかを見越してさまざまな予測をし、最も被害が少ない方法を選ぶという、複雑なカードゲームさながらの様相をなしていた。大統領選自体が、最初から、戦略投票の飛び交う場となってしまっているのだ。
それは当然、政治的信念から行われる選挙とは程遠いものとなり、大統領選を控えた何週間かは、誰もが「次善の策」を選ばざるをえないという、誰にとってもやりきれない、諦念に覆われた時期になっていた。
そんな中で、誰の頭の中にも、マリーヌ・ル・ペンが決選に残ることが予想されていた。それを望んでいない人たちの間でも、彼女が決選に残ること自体が、すでに起こりうる現実であり、2002年の時のような、信じがたいショックではなくなっていたのだ。
そして、このエッセイを書いている現在、来週の決選投票を前にして、左翼の人たちの中でも、2002年の時のような、何としてでも国民戦線を排除するために一致団結してシラクに入れよう、という雰囲気は薄まっている。もちろん、マリーヌ・ル・ペンに大統領になられては困るが、このままでもマクロンは十分当選確実なのだから、自分がわざわざ支持していない党に一票を投じることはないのではないか、今回の大統領選には失望したので決選投票に行く気がしない、という声も聞こえる。さらには、万が一ル・ペンが勝っても、6月の議会選挙では多くの票を獲得できないから、結局大したことはできないだろう、という意見まで出ているほどだ。

この慣れと諦めの感情は、『服従』でイスラーム同胞党のモアメド・ベン・アッベスの勝利を意外なほど抵抗なく受け入れるフランス社会に驚くほど似ている。フランスを多少なりとも知っている者は、これは非現実的な描写ではないか、フランス社会がこれほどたやすくイスラーム政党による様々な改革を受け入れるはずがない、と、違和感を感じたかもしれない。
しかし、今現在のフランスでは、国民戦線が決選に残ることを自明と捉え、今回の政権が政策に失敗したとすれば、5年後にはマリーヌ・ル・ペンの勝利も考えられると左翼までもが予測する空気が流れている。それもまた、十数年前のフランス人にとっては、信じがたい状況なのではないだろうか。
ウエルベックの小説では、大統領選挙後、非ムスリムの研究者は職を去らなければならず、多くの女性も失業に至っている。フランス女性がそんな状況を黙って受け入れることはありえない、と考える読者もいるかも知れない。しかし、移民を排除し、ゲイの人々が獲得した権利を奪い、女性に伝統的な役割を押し付けようとする政党が現在のフランスで20パーセント以上の票を獲得するという、『服従』の成り行きと同じぐらい信じがたい状況が現実となっているのだ。
マリーヌ・ル・ペン、そして彼女の支持者たちは、今回の大統領選では彼女が決選投票で勝利する見込みは少ないと了解しているが、次回、または10年後には、彼らが支持する政党が政権を握る可能性もあると冷静に判断し、それを踏まえた選挙運動を続けている。
そういう意味では、『服従』は、近未来ディストピア小説として書かれ、この2年間に、リアリズム小説へと変容しつつあるのだと言えるだろう。起こってほしくないとフランス人読者の誰もが考えていただろうその変容は、フランス社会自体がもたらしているのだ。
ウエルベックは、『服従』刊行直後のインタビューで、「自分は、社会にはびこっている恐怖、不安を小説の形で翻訳したのだ」と語っている。今まで、大衆の力が政治を変えられると信じられてきたフランス社会において、未来に対する無力感、不安が確実に人々を襲っている。それは、フランスだけではなく、去年のアメリカの大統領選、そして隣国イギリスのEU脱退のショックも影響しているだろう。トランプが当選した時に、フランス人の多くは、アメリカでこのようなことが起こりうるくらいなら、自分たちに来年何が起こってもおかしくない、と、一種の悲観的なヴィジョンとともにニュースを受け止めていた。

2022年に『服従』のディストピアが何らかの形で実現してしまうのか、それとも、希望を取り戻せる状況が現れるのかが、大統領選決選、そして、これからの5年間のフランス政治にかかっている。邦訳1年半後、『服従』は、そういった新たな視点からさらに読み直される機会を待っている。

Web河出
2017年5月23日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

河出書房新社

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