魯迅・周恩来も通った古書の街

レビュー

5
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神田神保町書肆街考

『神田神保町書肆街考』

著者
鹿島 茂 [著]
出版社
筑摩書房
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784480815323
発売日
2017/02/23
価格
4,536円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

魯迅・周恩来も通った古書の街

[レビュアー] 山村杳樹(ライター)

 世界に類を見ない「書物の街」神保町について書かれた書は少なくないが、本書は、この街を「産業・経済・教育・飲食・住居等々の広いコンテクストの中に置き直して社会発達史的に鳥瞰してみようと構想」して書かれている。

 旗本の神保長治が、元禄二年(一六八九)、小川町に屋敷地を拝領したことに地名が由来する神保町。幕末、安政四年(一八五七)に、のちに明治になって東京大学になる洋学機関・開成所がこの地に置かれたことが、古書の街へと発展する布石となる。学校が集まるところには学生が集まる。学生が集まれば、換金のために書物を売却する機会が増え、そのための古書店の需要が高まる。しかし、幕府崩壊で東京の人口は半減し、売る人間ばかりで買う人間が現れず、和書はただ同然に値が暴落。これを買い漁ったのが、アーネスト・サトウ、バジル・ホール・チェンバレンといったお雇い外国人たちだった。

 大正二年(一九一三)、神保町は大火に襲われた。この焼け跡に登場したのが二軒の古書店ニューフェイス、岩波書店と一誠堂だった。岩波書店は、「誠実真摯」を商業理念とし、業界初の「正価販売」を打ち出した。「一誠堂」は、反町茂雄の指導で古本修業をシステム化し、「古本屋の学校」として、のちの神保町を担う人材を輩出することになる。

 第十一章「中華街としての神田神保町」は、神保町の意外な歴史に割かれている。日清戦争終結後、清朝政府は、日本に積極的に留学生を送り込んだが、受け入れ先となったのが、嘉納治五郎が設立した「弘文学院」。嘉納は講道館の設立者だが、ときの外務大臣にして文部大臣・西園寺公望の依頼を受けて、中国留学生の受け入れに奔走した。この弘文学院の第一回生が文学者・魯迅だった。そして、清国留学生会館の類いが設けられたのが神保町。となると、留学生相手の中華街が出来るのは当然である。留学生・周恩来は、故郷の浙江省紹興の料理が恋しく、神保町「漢陽楼」に足繁く通った。

 意外なのは、日中戦争が始まった昭和十二年以降にも、汪兆銘の「中華民国南京国民政府」から毎年千人以上の留学生が来日していたという事実である。この留学生の中には、後の中国共産党の幹部になった者も多かったという。いわば神田神保町は「中国共産党揺籃の地」なのだと著者は指摘する。

 敗戦直後、空襲を免れた神保町では、西田幾多郎の『善の研究』と阿部次郎の『三太郎の日記』が「通貨」として流通していた事実にも驚く。

 本書執筆に託した「神保町の特殊性を抽出すると同時に、その特殊性を介して日本の近代そのものを逆に照らし出す」という著者の夢想は見事に果たされたと言える。

新潮社 新潮45
2017年5月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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