『百年の散歩』 多和田葉子著

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百年の散歩

『百年の散歩』

著者
多和田 葉子 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784104361052
発売日
2017/03/30
価格
1,836円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

『百年の散歩』 多和田葉子著

[レビュアー] 安藤宏(国文学者・東京大教授)

街の風景、独自の宇宙に

 ベルリンの街角を歩行する物語。おしゃれでピンと筋の通った緊張感が心地よい。「カント通り」「カール・マルクス通り」など、実在の一〇の街路がそのまま章題になっている。

 「わたし」の歩行は実に闊達(かったつ)だ。看板や行き交う人々の言葉が、ドイツ語、日本語、英語に変換され、イメージの連鎖を形作っていく。時には語呂合わせによって、言葉の手触りの感触が改めて再確認される。読者はこうした「言葉の作業場」を、既成の意味が解きほぐされ、ベルリンの日常の風景が独自の宇宙に姿を変えていく感覚として――あの多和田葉子の世界として――ただ、楽しめばよいのである。

 ベルリンには第二次大戦や東ドイツ時代の記憶が至る所に揺曳(ようえい)している。「わたし」がもっとも嫌うのは整序された「正しさ」や押しつけがましさだ。その意味でも全体主義、民族主義への嫌悪は実に徹底したものがある。「わたし」は半ば生理的、本能的なレベルで雑多なもの、多義的な世界を選びとり、そこに身をゆだねるのである。街路には時に戦争を戦った人の名が冠せられることもあるが油断は禁物だ。「反戦」もまた、いつでも硬直化したスローガンに変じてしまう危険と隣り合わせなのだから……。

 「わたし」は街角で「あの人」を待ち続けるが、ついに姿を現すことはない。安定した生活をあえて「あの人」と呼び、飼い慣らされた日常を見つめ直すための出逢(であ)いが用意される。街で見た芝居、映画、店の客同士の会話、行き交う人々……。こうした風景に小さくてささやかな物語が仕掛けられていくのである。

 たとえばレネー・シンテニス広場。偶然それがある女性彫刻家の名前であることを知った「わたし」は、次第に彼女への親近感を深めていく。広場に立っていたブロンズの子馬が実は彼女の作品であったことを知る場面はとても印象的だ。意味のある出逢いは、意味のある孤独を通して初めて実現するものなのだと思う。

 ◇たわだ・ようこ=1960年生まれ。「犬婿入り」で芥川賞。『雲をつかむ話』で読売文学賞など。ベルリン在住。

 新潮社 1700円

読売新聞
2017年5月14日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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