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狂気という名の怪物に迫る短編集
[レビュアー] 若林踏(書評家)
心の中の怪物領域を覗く。人間心理の不可思議さ、恐ろしさを描く物語として、ミステリと精神分析は切っても切れない縁にある。
一九四〇年代から活躍を始めた米国の作家、マーガレット・ミラーは精神科学を取り入れたミステリを書き続けた。その到達点のひとつが五五年の『狙った獣』(雨沢泰訳、創元推理文庫)だ。人の心に巣くう制御不能な怪物を、美しくも不安を煽る文章と、ともかく「読んで驚け」としか言いようのない展開で描き切った、ミステリ史に名を刻む作品である。
日本にも精神科学にこだわりを見せる作家は多い。逢坂剛もその一人だ。逢坂といえば冒険小説・ハードボイルドの書き手という印象があるが、実は精神分析を題材にした小説も多く発表している。なかでもトリッキーな趣向で唸らせるのが、三つの中編を収めた『水中眼鏡(ゴーグル)の女』(集英社文庫)だ。光への恐怖から競泳用ゴーグルを外せない女性が登場する表題作をはじめ、異様な謎と超絶技巧の仕掛けが待ち受ける。サイコスリラー好きのみならず、謎解き小説好きも満足させる中編集である。
暗号ミステリの力作『涙香迷宮』で再び注目を集める竹本健治の『かくも水深き不在』も、狂気という名の怪物に迫る連作短編集だ。
鬼が棲むといわれる廃墟の洋館で子供が次々と消えていく「鬼ごっこ」。赤い花が咲き乱れるCMに激しい恐怖を覚える男が語り手の「恐い映像」。思いを寄せる女性をストーカーから守ろうとする余り、男が常軌を逸してしまう「花の軛(くびき)」。犯人の意図が掴めない不可解な誘拐劇「零点透視の誘拐」。四つの物語にはおよそ常人には計り知れない心理が隠されており、竹本作品に度々登場する精神科医・天野不巳彦がときに案内役となって読者を戦慄的な結末へと誘う。
だが、本当の衝撃はラストの一編「舞台劇を成立させるのは人でなく照明である」にある。ここにあるのは四つの狂気を経た後に広がる、論理と幻想が一体となった世界。怪物領域のさらに向こう側へと、竹本健治は辿り着いてしまった。