『永井荷風』 多田蔵人著

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永井荷風

『永井荷風』

著者
多田 蔵人 [著]
出版社
東京大学出版会
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784130860512
発売日
2017/03/15
価格
4,536円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

『永井荷風』 多田蔵人著

[レビュアー] 苅部直(政治学者・東京大教授)

時代の揺らぎを潜ませ

 永井荷風は、その生前から「江戸趣味の第一人者」と評されていた。たしかにその多くの作品は、東京の下町の風情を残す浅草や隅田川の近辺を舞台とし、芸者や江戸時代の戯作者を登場させる。そこに、皮相にとどまった日本の西洋化への批判を読みとり、反近代の文学者として位置づける理解も生まれてくるゆえんである。

 しかしそのことを世に主張したいのなら、「文明批評」の文章を発表すればよい。実際に本人はそうした関心も強くもっていたのに、なぜあえて「小説」という表現形式を選んだのか。この本はその問いから出発している。そしてその問いに対する答えを、荷風が作品のなかに浄瑠璃、戯作文学、音曲などさまざまな江戸文化の産物をちりばめる、その引用の手つきのうちに探るのである。

 すでに二十世紀に入った時代を生きる荷風にとって、「江戸趣味」は生きた基盤を失いつつあった。市区改正と都市の膨脹(ぼうちょう)によって、下町には工場や小住宅が建ち並び、風景が変貌を続けてゆく。華やかに活躍する女性も、花柳界の芸者ではなくカフェの女給が主役になりつつある。むしろ「江戸趣味」の要素が現実感を失なっているのをわざわざ確かめるように、荷風は引用の営みを執拗(しつよう)に続け、その姿勢は時代錯誤とぎりぎりに接してしまう。

 だが、近代における「小説」とはそういうものではなかったか。そうした創作意識を荷風の作品の奥に読み取るのが、この本の斬新な視線にほかならない。江戸文化の引用も、また都市風俗を語る同時代の言説も、目の前に展開する現実をぴったりと表現する境地には到(いた)ることができない。そうした言葉の危機を自覚した上で、さまざまな物語と文体を組みあわせ、不整合や揺らぎを作品のなかに潜ませる。ここに描かれた荷風は、すでに近代の日本という領域をこえた、普遍的な「小説」の追究者なのである。

 ◇ただ・くらひと=1983年生まれ。東大大学院修了。鹿児島大法文学部准教授。日本近代文学などを専攻。

 東京大学出版会 4200円

読売新聞
2017年5月21日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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