我が子を取り替えた繭子、取り違えられた郁絵…母性とは何か

レビュー

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貘の耳たぶ

『貘の耳たぶ』

著者
芦沢 央 [著]
出版社
幻冬舎
ISBN
9784344030992
価格
1,836円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

細部を積み重ねた描写の圧倒的リアリティ

[レビュアー] 石井千湖(書評家)

 帝王切開の手術をしたあと〈普通に産めなくて残念だったね〉と言われたことに傷つき、衝動的に我が子とよその赤ん坊を取り替えてしまう繭子。ある日突然、大切に育ててきた息子が赤の他人の子だったと知らされる郁絵。『貘の耳たぶ』は同じ病院で出産したふたりの女性の運命の交差を描く。繭子の罪はいつどうやって暴かれるのか。血のつながりがない子供と離れることを拒む郁絵は、どんな道を選択するのか。息をつめて見守らずにはいられない。

 もし現実に起こった事件で、報道を見聞きするだけだったら、こんな母親がいるなんて信じられないと憤って終わっただろう。けれども芦沢央は、リアリティのある細部を丁寧に積み重ねることによって、繭子の内面に読者を引きずり込む。自然分娩した郁絵の子供より自分の子の体重がわずかに少ないと気づいた瞬間の反応など、母になろうとする女性が置かれているストレスフルな状況が生々しく伝わってくる。

 繭子が大学在学中に参加した合コンで夫と出会ったときのことを思い出す場面はとりわけ印象に残った。ヤマトヒメミミズの研究をしているという彼女の自己紹介に、同席していた人たちは驚き騒ぐ。繭子はミミズに触ることはないと言うが、のちに結婚することになる男性だけが説明を正確に理解し、みんなが気持ち悪がる虫に対して思いやりのある表現を使うのだ。かつて恋に落ちるきっかけとなった夫のまっとうさが、秘密を抱えた彼女を追いつめるのだから痛ましい。

 郁絵の視点で語られた第二章に、ミミズが出てくるシーンがある。どんな形であらわれるのか、ぜひとも確かめてほしい。取り返しのつかない過ちを犯した繭子も、彼女なりの愛し方や優しさを持っている人だということがわかるから。母性とは何なのか。簡単には答えが出ない、重い問いを投げかけつつ、思いがけないところに共感の扉を開いてくれる物語だ。

新潮社 週刊新潮
2017年6月1日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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