なぜ、「男らしい男」を描けたのか?/大澤真幸『山崎豊子と〈男〉たち』

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山崎豊子と<男>たち

『山崎豊子と<男>たち』

著者
大澤 真幸 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784106038075
発売日
2017/05/26
価格
1,430円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

なぜ、「男らしい男」を描けたのか?

[レビュアー] 平尾隆弘(神戸市外国語大学客員教授・前「文藝春秋」社長)

 山崎豊子は、半世紀を越える作家生活で、ひたすら長編小説を書き続けた。長編には必ず個性的なヒーローが登場する。『白い巨塔』の財前五郎、『華麗なる一族』の万俵大介、『不毛地帯』の壹岐正、『大地の子』の陸一心、『沈まぬ太陽』の恩地元……。

 著者は、そうした主人公たちをすべて「男らしい男」だと言う。そして、以下のような問いを投げかける。

 ――なぜ、戦後作家の中で、ほとんど山崎豊子だけが、あれほどめりはりの効いた「男」を、男らしい男を、描くことができたのか? まるで自身が男であるかのように、男の視点から「男」を描きえたのはなぜなのか?

 意表を衝く問いかけだ。「そう言われれば……」と思い当たるフシもある。が、「そう言われても……」と戸惑う気持ちにもなる。男らしい男? しかし船場を舞台にした初期作品、『暖簾』『花のれん』『女系家族』には男らしい男は出てこない。むしろ「男らしい女」が描かれているはずだ。それに『白い巨塔』の財前も、『華麗なる一族』の万俵大介も、権力欲にとりつかれた「悪」ではないか。それでも「男らしい」と言えるのか。そもそも「男らしい男」って何なのだ?

 大澤真幸は、自らの叙述方法に触れて、「読者にいったん『宙吊り感』を味わってもらう」と述べている。「そう言われれば」と「そう言われても」――この二つも一種の「宙吊り感」にほかならない。宙吊り状態のまま、読者は「われわれ」という主語の中に組み込まれる。冒頭の問いに続き、「なぜなのか」「どうしてか」「どういうことか」といったQ&Aが繰り出される。補助線に引かれるのは『砂の器』(松本清張)、『氷点』(三浦綾子)、『ビルマの竪琴』(竹山道雄)、ドラマ『男たちの旅路』(山田太一)等々。疑念が氷解したとたん、次の宙吊り感がやってくる。読了後、既知の風景が、次々に未知の風景に入れ替わるような知的興奮を覚えるだろう。

 本書の圧巻は、戦争三部作、「不毛地帯→祖国の不在→大地」への展開を追いつつ、『沈まぬ太陽』に至る分析である。

 作家論的に言えばこんな見方もできる。『白い巨塔』『華麗なる一族』のあと、山崎豊子はこれ以上魅力ある「悪人」を書くのは難しいと判断した。限界を突破するために、「悪」は個人ではなく、戦争と国家に転化された。作品のスケールは大きくなり、主人公は「悪と闘う善」になっていった、と。だが、大澤真幸の解釈はまったく違う。

 大澤は別の著書で、『東京プリズン』(赤坂真理)の主人公マリの言葉を引いている。「戦争に負けたのは、いい。しかたない。だけれど、自分を負かした強い者(註・米軍)を気持ちよくして利益を引き出したら、それは娼婦だ」。マリは、「戦争が終わったら、日本人全体がアメリカの前に“女”になったのか」とも言っている。この『東京プリズン』の主人公の慨嘆を一八〇度逆転したのが、山崎豊子の戦争三部作になるわけだ。壹岐正をはじめ、どの主人公も「私たちは負けた」ことを否認しなかった(できなかった)。大多数の日本人と違って、敗戦を正面から引き受けた。つまり「娼婦」であることを拒否し「男」たらんとしたのである。

 さらに重要なのは、彼らが国(日本)と国(ソ連、アメリカ、中国)との間(はざま)に立たされた人間だったこと。

《『大地の子』は、戦争三部作の成果を総合する作品であるだけではなく、山崎豊子の最高傑作、彼女が書いた全小説の中で最も優れた作品だ。》《陸一心は、山崎が造形した人物の中でも最も魅力的な「男」である。》

 と著者は書いている。その核心は、実父に「日本へ戻って来てくれないか」と請われた戦争孤児・陸一心が、「私は、この大地の子です」と答える言葉にある。なぜ、陸一心は日本に帰らず中国に残ったのか。なぜ「中国に残ります」と言わずに「大地の子です」と口にしたのか。

 大澤真幸は、この「大地」に、中国でも日本でもない〈普遍性〉を見ている。

《ある特定の文化が、己(おのれ)のアイデンティティを意図的・作為的に保守しようとすれば、このとき、必ず、この文化に内在する〈普遍性〉の次元が抑圧されることになります。(略)「彼らの文化」も、そして「われわれの文化」も、それぞれの特殊性に自己を同一化しようとするや、内的な抵抗が生ずる。その抵抗、その否定性が、あらゆる文化を貫通する〈普遍性〉です。》(『「正義」を考える』)

「山崎豊子という社会現象」を、内(作品)と外(精神史)から読みといた、スリリングな好著である。

新潮社 波
2017年6月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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