いまこの目の前にいるのはだれなのか? 瑠璃をめぐる三十四年の物語

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月の満ち欠け

『月の満ち欠け』

出版社
岩波書店
ISBN
9784000014083
発売日
2017/04/05
価格
1,728円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

いまこの目の前にいるのはだれなのか? 瑠璃をめぐる三十四年の物語

[レビュアー] 風丸良彦(盛岡大学教授・アメリカ現代文学・文化専攻)

 歳を食うと小説片手にこんな体験は稀になるが、貪り読んだ。村上春樹や池井戸潤でもこうはいかない。直近では又吉直樹の『劇場』で近い体験をした。なにがそうさせるのか。その前に。
 帯に「二十年ぶりの書き下ろし」「新たな代表作」とある。佐藤本人曰く(『正午派』)「百万部売れる本を」と言う山師っぽい編集者にその気にさせられ書いた『Y』、以来の書き下ろしだ。今回も「百万部で新たな代表作」みたいな話があった、かどうかは知らないが百万部売れてもおかしくないくらい、面白い。
 語りの時間は午前十時半に始まり午後一時すぎに収束する。三時間弱。八戸駅七時十七分発のはやぶさ8号に(おそらく)乗車し十時三十二分に東京駅に着いた小山内堅が、東京駅十三時二十分発のはやぶさ21号に乗って帰路につくまでだ。なぜ小山内はそんな慌ただしい行動をとったか。それは、六十すぎの小山内だが、母や交際相手に自分が東京駅のホテルでとある母娘に会うのを知られたくないためであり、普段通り会社に出勤していることを装うためだ。三時間弱に含まれる物語時間は三十四年強。小山内とは直接縁はないが同じ青森県出身の正木瑠璃の死、それと入れ替わるかのような小山内の愛娘、小山内瑠璃の誕生。死者にはその前史があるが、そこから三十四年の物語はやおら動き出す。そして三十四年後の今、小山内の目の前にいる母娘の母のほうは女優であり故小山内瑠璃の高校時代の親友、緑坂ゆい。傍らの小さな小学生の名はるり。
「どら焼き、嫌いじゃないもんね。あたし、見たことあるし、食べてるとこ。一緒に食べたことがあるね、家族三人で」と初対面の緑坂るりは小山内に向かって唐突に言い放つ。――例によってミステリー仕立てだ。あれとそれ、それとこれ、これとあれがどうやって結びつくかだ。途中中野ふれあいロードでの大活劇などもあり最初の「あれ」から最後の「あれ」への接続が蛇行した前作『鳩の撃退法』に比べ、終始緊張感に覆われる。例によって合間には笑いが挿入される。あるものではなく、ないものだ。村上や池井戸にあって佐藤にはないもの。それは歴史や経済の目には見えないシステムといったしち面倒くさいものだ。たとえば『1Q84』冒頭に逆らうかのように村上『騎士団長殺し』では、「目に見えることだけが現実だとは限らない」と主人公がしち面倒くさいことを言いだす。それを小耳にはさんだかのように本書で正木瑠璃の夫は言う、「幾通りも現実があったら、困ります」と。溜飲が下がる。呼応するかのように『騎士団長殺し』終盤には「月の満ち欠け」という言葉が現れ、続けざまに二作品間の驚くべき一致を目の当たりにするが、そのうえでも、無意識のうちに作中に紛れこみさえするしち面倒くさいものを封印する術に佐藤は長けている。読み手はだから、邪推なく物語世界に入り浸れる。そこが又吉の『劇場』にも通じる。
 さて。百万部売るにはどうしたらいいか。地道に店頭POP戦術か。作風からしてジャンル分けしづらいからか、デビュー作以来三十二年ぶりの文学賞が前作の山田風太郎賞という書き手だ。あるいは売れ筋系文学賞はもはやあがりと見なされているだろうか。待てよ。ということは出来合いの文学賞に物申すにはうってつけだ。そう、書店員を主人公にした著作もある佐藤正午の、お堅い取引条件でいちぶの書店員からはしち面倒くさがられる岩波書店のこの本が、あの賞を受賞したらなんて素敵だろう。直木賞ともかぶりはしまい。全国の書店員のみなさん、どんぞお読みあんせ。

週刊読書人
2017年5月19日号(第3190号) 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読書人

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