原発事故で自主避難、離ればなれになった家族の私小説

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見たくないものを、見ずにいられなくする書

[レビュアー] 武田将明(東京大学准教授・評論家)

 二〇一一年三月一五日、福島の原発事故が不安と疑念を掻き立てるなか、宇都宮に住む大学教員の「私」は、身重の妻と幼い娘を連れて東日本を脱出する。彼ら家族は沖縄に飛び、母とその再婚相手(義父)の家に転がりこむ。

 しかし沖縄は決して安住の地ではない。環境の変化に戸惑い、心身を磨り減らす妻子。国道を我が物顔で行く米軍の装甲車は、沖縄に浸透する暴力を見せつけ、「本土」から来た自分も加害者ではないか、と「私」は思い悩む。米軍基地で働くアメリカ人の義父との関係も屈折したものとなる。

 妻子を沖縄に残し、ひとり宇都宮で仕事を再開した彼は近所の冷笑を浴び、知人や親戚の多くも彼の行動を自己本位だと非難する。どこも針のむしろであるならば、いっそ家族を呼び戻したくなりそうだし、他ならぬ妻も繰り返し帰宅を訴えるのだが、夫婦関係に深い亀裂を生んでさえも、彼は離散生活を継続する。

 どうしてそこまで? と思う人もいるだろう。「私」自身、自主避難の必要性を訴えながらも、迷いを払拭できずにいる。しかしおそらく、彼には放射能の毒も沖縄の苦悶も、形をとって見えてしまうのだ。ゆえに本書は、客観的に自主避難の正当性を論証する記録というより、鋭敏な感性が自他を傷つけてつかんだものを赤裸々に示す私小説である。

 本書のリアリズムは、ときに意図せざるユーモアに転じる。ある親族が「セシウム測定済」という証書を同封した福島県産の桃を、毎年段ボール一杯沖縄に送りつけてくる。「私」はそこに執拗な悪意を感じつつも、証書を念入りに確認した上で、妻と一緒に桃をおいしく食べてしまう。

 不都合な事実から目を背け、かりそめの「現実」に安住する人の多い現代にこそ、本書は読まれるべきだろう。見えないもの、見たくないものを、見ずにはいられなくする書物だ。

新潮社 週刊新潮
2017年6月15日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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