著者渾身の化物論 近世文化研究の基礎資料として幅広く読まれるべき書

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著者渾身の化物論 近世文化研究の基礎資料として幅広く読まれるべき書

[レビュアー] 飯倉義之(國學院大學准教授)

 本書の「はじめに」に、まず驚いた。論理的に緻密に構成された本書の「はじめに」は、「本書の目的と構成」という小見出しを置いて、「本書には、私が長年考え続けてきた「草双紙のなかの化物像」に関する主要な論文を収めた。私にとっては、初めての論文集である。」という一文で始まる。アダム・カバットは一九九九年刊行の『江戸化物草紙』(小学館。のち角川ソフィア文庫)を皮切りに、『大江戸化物細見』(小学館、二〇〇〇年)、『大江戸化物図譜』(小学館文庫、二〇〇〇年)、『妖怪草紙――くずし字入門――』(柏書房、二〇〇一年)、『江戸滑稽化物尽くし』(講談社選書メチエ、二〇〇三年)、『ももんがあ対見越入道』(講談社、二〇〇六年。のち講談社学術文庫)、『江戸の可愛らしい化物たち』(祥伝社新書、二〇一一年)、『江戸の化物 草双紙の人気者たち』(岩波書店、二〇一四年)等の、江戸の草双紙に創作された化け物たちを総合的に論じ、学界を牽引してきた、怪異・妖怪研究の重鎮の一人である。そのカバットにして、論文集がこれまで刊行されていなかったということ。にも拘らず、カバットの提唱した近世草双紙化物論が広く認知され、研究者に肯定されて共有されているということ。カバットの江戸化物論の意義と卓見、そしてその価値を、改めて理解したように思う。
 本書では、江戸期の庶民的娯楽読物である「草双紙」に表れた/現われた「化物」について総合的に論じている。草双紙の変遷によって化物の書き方/描き方がどう変わっのたか、どのような化物が起用されたのか、その化物はどのように創作されたのか、そこに作家の個性はどう発揮されているのか。本書はそれを緻密に、着実に論じていく。その対象としてスポットライトが当てられるのは、豆腐を携えているというだけの個性に頼って出現する、化物の中では弱弱しくも愛らしい「豆腐小僧」や、その怪異な容姿で一世を風靡して伝承上の人となったと思われる見世物のセンターアイドル「鬼娘」、中世以来の付喪神との判別がつけがたい近世のかわいい「道具の化け物」たちなど、著者が惚れこんだ化物たちの草双紙への登用とその後の展開と、書き手・読み手の思惑とが、微に入り細に入り考察されている。
 ここにカバットの化物論の真価が見えてくる。化物(=妖怪)の研究は、民間伝承を対象とする、柳田國男が確立した民俗学の領域が牽引してきた。柳田の妖怪研究は、文字による教養を身につける機会が少なく、村落共同体の老齢者の語りを耳にして「常識」を形成してきたと仮定する〈常民〉の「群れ」が生み出した想像力であり、その語りは「群れの文芸」ともいうべきものであった。柳田にとっては、草双紙(や錦絵・浮世絵・歌舞伎・人形浄瑠璃・講釈その他)の化物たちは、群れからはなれた都市の教養人が、書物の知識に拠って創作した、生活実感から乖離した嘘八百であった。
 しかし江戸の創作化物たちも、草双紙作者たちの生み出す文芸を待ち望む読者共同体に向けて創出され、読者共同体に共感されて愛されたがゆえに定着した存在と考えると、江戸の創作化物たちも、十分に「群れの文芸が生みだした存在」の要件を見たしている。本書は柳田の妖怪研究が無価値として一旦は切り捨てた領域の、芳醇な価値と面白さを精緻な書誌調査とロジカルな物語分析で提示し再考を迫る、著者渾身の化物論となっている。今後の近世草双紙研究ならびに怪異・妖怪研究には、必読の一冊である。
 なお、内容の重なりから『江戸の化物 草双紙の人気者たち』との併読は必須といえる。ここが本書の瑕疵と言えば瑕疵かもしれない。しかし本書の重要さと比べれば、そんなものはかすり傷だ。怪異・妖怪研究に限らず、近世文化研究の基礎資料として幅広く読まれるべき一書である。

週刊読書人
2017年5月26日号(第3191号) 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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