『アノニム』でわかる、現代アートの楽しみかた〈刊行記念インタビュー〉原田マハ『アノニム』

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アノニム

『アノニム』

著者
原田, マハ
出版社
KADOKAWA
ISBN
9784041059265
価格
1,650円(税込)

書籍情報:openBD

『アノニム』でわかる、現代アートの楽しみかた〈刊行記念インタビュー〉原田マハ

『楽園のカンヴァス』『暗幕のゲルニカ』に代表されるような、「アートと小説の融合」を目指す原田マハさん。最新作『アノニム』は、謎の窃盗団と無名の高校生アーティストが活躍する、新時代のアートエンタテインメント小説です。芸術の垣根を越えて、世界を縦横無尽に楽しむ術を伺いました。

現代アートの源流、ポロック

1

――『アノニム』、一気に読みました。現代アートを題材に描いたスリリングな作品です。小説の構想はどのようにして生まれたのでしょうか。

原田 『アノニム』を構想したときのフレームは大きく分けて二つあって、一つは、アートをめぐるアドベンチャー小説。アート界のルパン三世とか、古いけど鼠小僧とか。

――義賊ですね。

原田 そうです。自分たちの私利私欲のためにアートを盗む泥棒はいるけれど、その逆はどうだろう。アートを使って世直し。そういうことをしている人たちを描きたいな、と。

――それがこの小説のタイトルにもなっている「アノニム」という謎のチームですね。

原田 最初にタイトルがあったんです。フランスの美術館で絵を見ていると、ときどきキャプションに「anonyme(アノニム)」と書かれたものがあるんですね。ちょっと古い作品に多いんですけど、作者不詳のことです。英語でいうとunknown。「アノニム」という語感がまず印象に残りました。それに私自身のなかに一つの大きなテーマとして「作者不詳」があったんですね。アート作品には作者がつきもの。作者がわかっているものこそがアートなのか、それとも作者がわかっていない作品でもアートといえるのか。誰も結論は出せないと思うんですけど。
 もう一つのフレームが現代アート。アートの義賊たちが挑むとすればどんな作品だろう。いろいろ考えたんですけど、その答えが現代アートだったんです。

――原田さんが作品のなかでいままで取り上げてきた画家たちは、アンリ・ルソー、マティス、ピカソなど、十九世紀から二十世紀にかけて活躍した、いわゆるモダンアートの巨匠たちでしたね。今回、登場するのは二十世紀半ばの抽象表現主義[1]の代表的アーティストとして知られるアメリカの画家、ジャクソン・ポロック[2]の幻の絵画です。戦後の現代アートのなかでも、ポロックを取り上げようと思われたのはなぜでしょうか?

原田 いままでモダンアートを中心に書いていたので、そこから現代アートへとつなげてみようと思いました。現代アートにはいろいろな表現があるので、読者のみなさんに知らせるいいきっかけになればな、と。ただ、いま現在の現代アートは、あまりにも多様化していて、ある人にとっては、これはアートとは思えないというものもあるんですね。そこで、本作では、そもそも現代アートとはなにかという大きな問いを読者のみなさんに投げかけて、一緒に考えていただこうと思いました。そこで、現代アートの源流をつくった人たちのなかからポロックが浮かび上がってきたんです。

――ポロックにはもともと興味をお持ちだったんですか?

原田 実はアートの世界に入ったときにはその良さがまるでわからなかったんです。そもそも絵じゃないじゃないかという気さえしました。ポロックの魅力を知ったのは二十代のとき。初めてニューヨーク近代美術館[3]に行って、ポロックの「Number 1A」[4]を見たんです。長辺が二メートル以上ある大きな絵なんですが、その前から動けなくなるような吸引力がありました。キャンバスの上を移動しながら絵の具を垂らしていったポロックの行為自体が軌跡として残っていて、いま眼の前にある。つまりそこには、この絵の上をポロックが歩き回ったということが、永遠に封じ込まれているんですね。それはアーティストがモデルや山を見てキャンバスに描き写すのとは違って、アーティスト自身がキャンバスのなかに入ってしまったということです。その発想の転換がいかにすごかったか。大きなキャンバスに描かれた実物を見るとよくわかりました。絵そのものがものすごい磁場を発生させていて、とんでもないな、と思いましたね。ニューヨーク近代美術館の後にメトロポリタン美術館[5]をはしごしてポロックを見た。このときの経験は忘れられません。

――ポロックと「出会った」のですね。

原田 それともう一つ、この小説のことを考えているときに、たまたますごく面白い展覧会を見たことが直接の理由ですね。パリから特急で三時間ほどのメッスという町に、ポンピドゥー・センター[6]の分館があって、そこで開催されていた「Views from above」という展覧会です。現代アートはテーマや企画で見え方が大きく変わります。テーマ性が重要なんですね。「Views from above」はまさにそのテーマ性がすばらしかった。タイトルは真上からの眺め、という意味です。どういうことかというと、画家はずっと正面に見えるものを描いてきました。あたりまえに聞こえるかも知れませんが、イーゼルを立てて山や風景、美人やリンゴを描いてきたんですよね。ところが、十九世紀の後半になって、人間の視点がドラスティックに変わった。飛行船が空を飛ぶようになり、高層建築が建ち始めた。そのとき、人間は神の視座を手に入れた。いままでにない視点を人間が手に入れたことで、アートがどう変わったかという展覧会だったんです。

――たしかに真上からの視点はそれまではなかったですね。面白い。

原田 絵画だけでなく、写真や映像などいろいろな作品がありました。作品が時代順に並べられ、産業の発展とともに人間の視線が変わってきたことがよくわかりました。そして最後のパートにあたる一九五〇年代にポロックの作品が出てきたんですよ。
 ポロックはキャンバスを床に置き、絵の具を垂らすドリッピングという手法で作品を制作しました。神の視座に立って、真上から真下を描いた人なんです。そのことに気づかされて、鳥肌が立ちました。ポロックはそれまでのモダンアートの画家たちと描き方が違うだけでなく視点も違った。ポロックが真上からドリッピングしたということがいかに新しかったかがわかって衝撃を受けたんです。

国境も時代も越えるアート

――これまでの原田さんの作品ではアーティストの人生を作中に織り込むことが多かったですが、今回はポロックの作品をめぐる物語に絞っていますね。

原田 ポロックの人生にも惹かれるのですが、それをやってしまうと話がどんどん逸れていってしまいそうで(笑)。今回はポロックの作品が持つ力によって、彼よりも後の人――この作品でいえば、香港の高校生、張英才ですね――が影響を受けるという物語にしたかった。国も時代も違うかもしれないけれど、アートの持つ力が後の世にもたらす、その影響力を描きたかったんです。

――作中でポロックがピカソを超えたいと願っていたというエピソードが紹介されていますが、ピカソからポロックへと渡されたバトンが現代の若者に渡されたと感じました。

原田 アートが素晴らしいのは、国境も時代も越えていくからです。近代のアートにフォーカスすれば、ヨーロッパで始まった印象派などのムーブメントが、二つの大きな大戦を挟んで、戦後はその中心がアメリカのニューヨークに移った。しかし、政治経済の中心にアートや文化がついてくるのは世の習わしで、いままたパワーバランスが変わってきつつある。二十一世紀になってからは、中国などのアジア諸国や、BRICsと呼ばれている新興国のアート・マーケットが拡大し、新しいアーティストや有力なパトロンが現れているのは事実なんですよね。

――『アノニム』ではまさに香港、台湾が舞台になっていますね。

原田 物語の舞台は近未来ですが、実際、いま、世界のアート・マーケットを動かしているのはアジアとアラブ。物語は完全にフィクションなんですけど、すでにそれに近いことが起きているんですね。こういう現実があるということを読者に知らせることも大事だと思いました。
 また、アジアのアート・マーケットの活況には、励まされる部分と危うい部分があることも知ってほしかった。励まされる部分は、長いこと欧米中心だった考え方が変わってきたこと。アジアの国が世界の経済を牽引し、アートに投資しているということに関しては、同じアジア人として励まされます。一方、危うい部分としては、それが突然嵐のように起こったために、一部のお金持ちたちが熱狂的にお金を使いマーケットを動かしているだけで、それ以外の人たちはおきざりにされているのではないか、ということです。突出した力を持つ人たちが現れると、バランスが崩れて争いごとが起きたり、戦争になったりする可能性があります。本作ではこの両面を小説のなかで表現できないかなと思いました。良い部分だけでも悪い部分だけでもない。こういう状況のなかでアートがどう扱われて、人々がどう変わっていくか。『アノニム』のこれからの大きなテーマでもあると思っています。

――まさにバランスが崩れて危機的な状況にある場所に現れるのがアノニムですね。偏りや歪みが起きたところを修正する希望の光でもある。アノニムのメンバーは国籍も職業もバラバラの九人です。美術史家、美術品修復家、ギャラリスト[7]、建築家、オークショニア[8]といった美術や美術館に関わる人物と、フランス貴族の直系でラグジュアリー・ブランドのオーナー、世界的IT企業の経営者、天才ITエンジニアまでいます。どのように設定を作られたんですか?

原田 面白いでしょう?(笑)私がいままで三十年くらいアートの世界を見てきて、自分が見聞きしてきたものをぜんぶ詰め込みたいと思ったんですね。一人の人にすべて詰め込むわけにはいかないから、それぞれのメンバーに役割を持たせました。みな世界の第一線で活躍しているんだけど、あるミッションを帯びたときには肩書きを隠して、まったくの隠密で動く。

――アートのドリームチームなんだけど、それは誰も知らない。

原田 そうなんですよ。だから「アノニム」なんです。

現代アート×痛快アドベンチャー

――アノニムたちはポロックの幻の絵画を狙うゼウスという富豪と戦うことになるのですが、物語の展開がスピーディでとても気持ちよく読めました。

原田 私の場合、小説を書いていると映像が見えてくることが多いんですが、『アノニム』は完全に脳内の映像を見ながら書いている感じでしたね。時間と場所でパッパッとシーンが変わるじゃないですか。映画だったらパッとシーンが変わる感じですね。ムービーを見ているような感じで追いかけてもらえればいいと思います。

――映画の『ミッション・インポッシブル』や『007』を連想しました。これまでの原田さんの作品にはない新境地では?

原田 アート×アドベンチャーというのは完全に新しい試みでしたね。アートではないですけど、角川文庫の『翼をください』がいちばん近いかもしれない。映像的でアクティブな場面転換がある点が。でも、あれは史実をもとにした女性飛行士の話で、今回はもっとトム・クルーズ的というか(笑)。

――かっこいい(笑)。壮大なスケールのエンタテインメントだと感じました。

原田 でも爆発もないし、殺しもない。宙も舞っていないんですよね。アクションはゼロなんです、実は。自分でも読み返して、すごくアクションぽいけどアクションないじゃないかって(笑)。

――アクションしているのはアーティストですね。ポロックと張英才。絵を描くという行為がアクションのように感じられる。そこにこの小説のすごさがあると思います。

原田 あとは最後のほうのオークションですね。あれはアクションではないですけど、金額がどんどん上がっていって、盛り上がっていく感じをアクティブに書けたと思います。

――『アノニム』は現代アートについて知識がなくても楽しめると思います。しかし、現代アートを取り上げた小説は珍しいのも事実です。小説の題材としてどうでしたか。

原田 最近の若い人はそうでもないけど、ちょっと前までは「現代アートはわからない」という人が多かった。モネやマティスはいいんだけど、現代アートはわからない、と。でも、現代アートってわかるものじゃないんですよ。空間のなかで見て感じるもの。美術館やギャラリーに立つと、空間と作品の関係性や、色彩の美しさ、ダイナミズムが伝わってくる。わからない、とシャッターを下ろすのではなく、感じてほしいんですね。そのためには作品を見に出かけてほしい。モネはどこで見ても名作。でも現代アートは同じ作品でもどこで見るかで伝わってくるものが変わります。場所や環境を含めて作品なんです。

――「見る」より「体験」なんですね。

原田 そうですね。現代アートは体や心で体験するもの。構えなくていいんです。日本人の大好きなゴッホやセザンヌだって、当時は現代アートの最先端。そのころは理解されなかった。でも、彼らが非難囂々のなかをくぐり抜けて残したものが、ピカソにつながり、ポロックにつながり、そしていまの現代アートへとつながっている。いま発表されている現代アートの作品は、すべて過去の作品に遡れます。大昔のラスコーの壁画[9]から現代まで、人類は一度も途切れることがなくアートをつくってきた。この世が終わると思うほど悲惨な災害や戦争といった悲劇があったはずですが、一度もアートはなくならなかった。私たちはアートをつくる生き物なんです。私たちはアートを受け入れることができる。怖がらなくてもDNAにちゃんと書きこまれています。ですから、心配しないで入ってきてほしい。それが、アートの門番である私の思いですね。この本を開いてさえいただければ、『アノニム』が頼もしいガイドになってくれると思います。

原田マハ(はらだ・まは)
1962年東京都生まれ。マリムラ美術館、伊藤忠商事を経て、森ビル森美術館設立準備室在籍時、ニューヨーク近代美術館(MoMA)に派遣され同館にて勤務。2005年、『カフーを待ちわびて』で第1回日本ラブストーリー大賞を受賞して、小説家デビュー。12年に刊行した『楽園のカンヴァス』で第25回山本周五郎賞を受賞。16年刊行『リーチ先生』で第36回新田次郎賞を受賞。その他の作品に『さいはての彼女』『本日は、お日柄もよく』『翼をください』『ジヴェルニーの食卓』『暗幕のゲルニカ』『太陽の棘』『サロメ』など。

 * * * * *

[ 1.抽象表現主義 ]
1940~50年代にアメリカで起こり、世界的に影響を与えた抽象絵画の傾向。アメリカ美術が世界をリードするきっかけになった。ポロックのほか、マーク・ロスコ、ウィレム・デ・クーニング、バーネット・ニューマンらが有名。

[ 2.ジャクソン・ポロック ]
1912年生まれ。ネイティブ・アメリカンの砂絵にヒントを得てキャンバスを床に置き、絵の具を垂らす手法(ドリッピング)で抽象絵画を制作。アクション・ペインティングとも呼ばれ、美術史に一時代を築く。私生活ではアルコール依存症に悩まされ、44歳の若さで交通事故で亡くなった。

[ 3.ニューヨーク近代美術館 ]
MoMAの愛称で知られる世界的な人気を誇る美術館。1929年の開館以来、ほかの美術館に先駆けて同時代の美術、写真、工芸、デザインなどを収蔵。

[ 4.「Number 1A」 ]
ジャクソン・ポロックの代表作の一つ。正確なサイズは172.7×264.2 cm。

[ 5.メトロポリタン美術館 ]
MoMAと並んでニューヨークを代表する世界的美術館。愛称はThe Met。1872年開館。古代から現代まで幅広い対象をコレクションする巨大美術館。

[ 6.ポンピドゥー・センター ]
パリの国立美術文化センター。1977年開館。レンゾ・ピアノとリチャード・ロジャースによる配管を剥き出しにした建築デザインでも有名。メッスに造られた分館は、日本の建築家、坂茂ほか日仏の共同チームの建築設計により、2010年に開館した。

[ 7.ギャラリスト ]
ギャラリー経営者、美術商。多くは自らの名前を冠し、その審美眼がギャラリーの命運を決する。そのため有名ギャラリーといえども一代限りの場合が多い。

[ 8.オークショニア ]
オークション(競売)を仕切る人物。オークションの場面でハンマーを叩いている人物といえばイメージが湧くと思うが、その仕事は多岐にわたる――ことが『アノニム』を読むとわかる。

[ 9.ラスコーの壁画 ]
フランスの西南部の洞窟で発見された壁画群。2万年ほど前にクロマニョン人によって描かれたと考えられている。動物や人間、手形などが描かれ、現代人が見てもその美しさは感動的。

取材・文|タカザワケンジ  撮影|ホンゴユウジ

KADOKAWA 本の旅人
2017年6月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

KADOKAWA

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