『核密約から沖縄問題へ』 真崎翔著/『米国と日米安保条約改定』 山本章子著

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『核密約から沖縄問題へ』 真崎翔著/『米国と日米安保条約改定』 山本章子著

[レビュアー] 奈良岡聰智(政治史学者・京大教授)

米軍基地の形成の歴史 一次資料を使って考察

 沖縄の本土復帰から、今年で四五年である。節目の年に相応(ふさわ)しく、沖縄の将来を考える上で重要な著作が相次いで刊行された。

 NHKの世論調査「復帰四五年の沖縄」(四月実施)によれば、沖縄の回答者の半数以上は、米軍基地を全面撤去するよりも、「本土並みに少なく」することを求めている。しかし現状では、日本にある米軍が占有する基地施設の面積の七割以上が沖縄に集中し、基地負担の軽減化は十分に進んでいない。山本章子『米国と日米安保条約改定』は、こうした米軍基地の現状が歴史的にどのように形成されたのかを明らかにしている。

 一九五〇年六月に朝鮮戦争が勃発(ぼっぱつ)した後、アメリカは在日米軍を増強し、一九五三年の休戦協定締結後も多くの米兵が日本に駐留した。しかし、砂川闘争など反基地運動の盛り上がりのため、アメリカは本土から沖縄へと基地の移転を進めた。一九五四年には約二一万の在日米軍のうち八八%が日本本土に駐留していたが、一九六〇年には約八万三千のうち四四%が沖縄に集中するようになった。アイゼンハワー政権は、インドシナ情勢の緊迫化などを踏まえ、日本本土を兵站(へいたん)・補給基地、沖縄を有事の際の出撃基地として位置付けた。著者は、現在の沖縄の米軍基地の基本構造が形成されていった様子を、東アジアの国際環境やアメリカの軍事戦略に照らして、丹念に明らかにしている。

 一九六〇年、日米安保条約が改定された。岸信介首相の政治生命を賭けた取り組みによって、日本は旧条約の片務性を相当程度解消した。しかしその代償も小さくなかった。本土の基地使用が以前より制限されたため、沖縄の米軍基地の役割が拡充される契機ともなったのである。安保改定によって創設された事前協議制において、核持ち込みが協議の対象に含まれ、日本側が拒否権を持つとされたのも、大量の核が貯蔵された沖縄の基地をアメリカが自由に使用できることが大前提となっていた。安保改定は、沖縄の米軍基地の固定化、核兵器の取り扱いといった課題を、その後に残すことになったわけである。

 沖縄返還交渉にあたって、佐藤栄作政権が「核抜き・本土並み」(核兵器を持ち込ませず、本土と同じような施政権を日本が持つ)を基本方針としたことはよく知られている。沖縄返還協定はこの方針に沿って締結されたものの、同時に、有事の際の沖縄への核持ち込みを事実上認める「密約」が締結されたことも、今日では周知の事実である。実は、この「密約」には先例があった。沖縄に先立って一九六七年に小笠原諸島が返還された時にも、同様の「密約」が結ばれていたのである。真崎翔『核密約から沖縄問題へ』は、この問題について深く掘り下げて検討している。

 東京から南約千キロに位置する小笠原諸島は、太平洋戦争で日米が激戦を繰り広げた地域である。アメリカは戦後もこの地域を重視し、駐留を続けた。父島と硫黄島は、核兵器が配備され、重要な戦略拠点とされた。そのため、旧島民は、一部を除いて帰島を許されず、一九六五年まで墓参すらできなかった。

 佐藤政権は、こうした状況を打開するため、小笠原返還交渉を開始した。しかし、核運搬技術の向上などにより、一九六五~六年に小笠原諸島の核兵器は撤去されていたものの、ジョンソン政権は緊急時の核貯蔵庫としてこの地域を使用する権利を手放す考えはなかった。その結果、小笠原は全島一括で日本に返還されたが、有事の際の硫黄島への核持ち込みを事実上認める「密約」が、同時に締結されることになった。著者は、この時の枠組みが沖縄返還交渉にも受け継がれたと指摘している。

 いずれの著作も、アメリカの国務省や軍の一次資料を駆使した労作である。沖縄や小笠原の基地問題について、アメリカの東アジア軍事戦略や日本本土の米軍基地との関連性を視野に入れて、具体的に考察した貴重な研究成果であり、基地負担の軽減について考えるためにも必読の文献である。

 ◇やまもと・あきこ=1979年北海道生まれ。沖縄国際大非常勤講師。共著に『沖縄と海兵隊―駐留の歴史的展開』。

 吉田書店 2400円

 ◇まさき・しょう=1986年愛知県生まれ。名古屋大博士研究員。名古屋外国語大などで非常勤講師も務めている。

 名古屋大学出版会 4500円

読売新聞
2017年6月11日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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