『キリスト教は役に立つか』
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孤高の神父が説く“ゆるいキリスト教”の再発見
来住英俊神父の最新刊『キリスト教は役に立つか』が注目を集めている。数々の著書の中で常に意識してきたのは、教会の「外」に対する発信。しかし、意外にもカトリック教会内での評価は「本を出し続けてご立派ですね」というものが少なくなく、そこには「現場を知らない」との意味も込められているという。それでも、「ここに神の導きあり」との確信がある。何が「物言う」神父の原動力となっているのか。
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本書の帯に「イエスの教えは『孤独』に効く」と書いていただきましたが、わたし自身も教会の中でずっと孤独を感じてきました。わたしが教会の現場に深く関われる人間だったら、そもそも本を書くようなことはしていないと思います。わたしはそういうことをしないのではなく、できないのです。
(新約聖書の)使徒言行録にあるパウロの宣教のように、人間がある方向へ進む場合、最初から「これが大事だ!」と行くというよりも、ある方向が行き詰まったので、やむを得ず別の道に行ってみたら宝があったという方が多いのではないでしょうか。
わたしは司祭になる前に製造業で働いていましたが、神父になりたかったというよりも、行き詰まった感じがありました。「このままではうまく行かないな」と思ってこちらに来た。でもいざ教会に入ってみたら、やはり教会の主流ではうまくやれず、また傍流へとずれ、気が付いたら周辺で本を書いていたという感じです。
信仰さえあれば何でもできる?
書きながら気づいたのですが、『キリスト教は役に立つか』の中でわたしが本当に書きたかったことは、「ゆるいキリスト教」の再発見かもしれません。カトリック教会が高齢化で人数も減り、勢いが弱くなっているのと反比例するかのように、「キリスト者は世のため人のために働くべき」という文書が増えている印象があります。つまり「叱咤激励するキリスト教」です。
「福音」というのは「幸福の音信」であり、まずキリストを信じるようになった人が幸せになるという話だと思います。ところが「キリスト者たるもの、たとえ迫害を受けても人を幸せにするために刻苦精励しなければならない」と、倫理化されがちです。
わたしは学生運動の時代を知る世代ですので、「君たちは第三世界の虐げられた民衆と連帯しないでいいのか! プチブル的幸福に安住しているのではないか!」という、あの恫喝的なアジを思い出してしまうのです。
もちろん、キリスト教は「世のため人のため」に尽くすはずのものだとは思います。しかしそれ以前に、信じた人が幸せにならなければならない。そこにいるあるがままの人をまず認めるというのが福音の始まりです。
イエスと1対1の関係を深めることそのものが信仰者の幸せ。「~であるべき」という話はその後です。自分たちが幸せである根拠をもっと語り、確認していく。そしてそれを育てていくのが本来のあり方ではないかと。
社会正義に貢献する、モラリッシュなエネルギーを得るためにキリスト教徒になるわけではありません。イエス様と親しく話して、愚痴も聞いてもらえるようになれば、徐々に心が柔らかくなり、たまには善い行いもするかもしれません。
「愛は使えば使うほど増えるもの」と言う人がいますが、そう簡単に言ってほしくない。人は資質的にも、気力的にも、体力的にも限界のある存在だと認めるのがキリスト教でしょう。信仰さえあれば何でもできるというのは、むしろグノーシス主義だと思います。
今日のカトリック教会はその傾向を持ちつつあると危惧します。それに対する不満が、この本を書かせた一つの理由かもしれません。
「正しさ」そのものが福音ではない
「困っている人をどんどん迎える教会であらねばならない」と言いますが、「迎える人はどこにいるんですか?」と。己の実力をわきまえないまま、言葉だけが華麗に飛び交う。そういう言葉は間違っていませんから、「そうは言ってもできないのでは?」とはなかなか言えない。でも、わたしはそれが言えない教会はよくないと思います。これは神学的な課題です。
教皇フランシスコの『使徒的勧告――福音の喜び』(カトリック中央協議会)は立派な本ですが、「福音宣教の社会的次元」という章に戸惑いを感じている信者はいます。南米のように貧しい人々が全体の99%で、その中にどっぷり漬かっている状況でなら違う受け止めになると思いますが、日本のような先進国でこれを言えば「お前たちは偽善者だ。家も畑も売って貧しい人に施せ」という話になってしまいます。
わたしが恐れるのは、そういう「言葉の爆撃」を受け続けると、言葉に対して不感症になっていくという事態です。ラディカルな言葉に慣れてしまうと、そのギャップの大きさに自ずと「あれはあれ」と処理するようになってしまう。キリスト教的な言葉の多くはそうなる可能性があります。「とてもいい説教でした。もっともだと思います。教会はそういう話をするところだと思います。でも、わたしの日常は違います」と。「そうは言ってもできない」という自分を真剣に考えなければなりません。
「キリストがあなたに何を望んでいるのかは、わたしが知っている」という感覚は傲慢です。キリストが自分に何を望んでいるかは、一人ひとりがキリストとの交わりを深めながら、メッセージを受け止めていくものです。教会や教皇の教えを真剣に受け止めることはそれと並行して行う。
「正しさ」そのものが福音なわけではありません。自分の今の生活が安楽になるわけではないけれども、心と視野が広がり、「ああ、生きやすくなった」と思えることが福音ではないでしょうか。
わたしたち一人ひとりの力はさして大きくありません。その現実を認めて、「わたしにはできる気がしません」とか、はしたない本音も言えるようなキリスト教であってほしいと思っています。
(聞き手 松谷信司/協力 沼田和也、新潮社)
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御受難修道会司祭 来住英俊
きし・ひでとし 1951年、滋賀県生まれ、神戸育ち。灘高校から東京大学法学部に進み、日立製作所を経て、81年にカトリックの洗礼を受ける。御受難修道会に入会し、89年に司祭叙階。「祈りの学校」主宰。著書に「目からウロコ」シリーズ(現在10冊、女子パウロ会)、『気合の入ったキリスト教入門』(全3巻、ドン・ボスコ社)、『『ふしぎなキリスト教』と対話する』(春秋社)、『禅と福音』(南直哉との共著、春秋社)など。