今月の文芸誌 「語る」をめぐる小説二篇

レビュー

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「語る」という行為をめぐる印象的な小説二篇

[レビュアー] 小山太一(英文学者・翻訳家)

B0712464VX
群像 2017年7月号

 今回は、語るという行為をめぐって展開される小説二篇が印象的だった。

 乗代雄介未熟な同感者」(群像)は、『十七八より』(単行本、講談社)の続篇だ。『十七八より』でも顕著だった語りの自意識が、いっそう先鋭化されている。

 某大学の卒論ゼミ。担当の准教授は相当の変人らしく、授業の途中で必ず抜け出すのは女子大生にかきたてられた性欲を手淫で処理するためだという噂を立てられている。受講者は四人。視点人物の女性「私」、雑魚キャラの男と女、そして「いかにも不躾ぶった……振舞いの全てが、その佇まいを侵さぬ」圧倒的な美しさで周囲を魅了する間村季那だ。間村季那は「私」にとって、いくら語っても語り足りない存在となる。

 間村季那と准教授の関係をめぐってゼミ内に巻き起こる波乱は、おそらくわざと、やりきれないほど通俗的に仕立てられている。その通俗性は、「私」が間村季那について語るために研ぎ澄ましてゆく修辞の鋭さと対照的だ。にもかかわらず、「私」は間村季那を語りによって捕捉することができない。「私」の言葉に残るのは、ある際立った存在の痕跡に過ぎない。

「私」が間村季那の薬指を思い切り噛むことを夢想しつつ、実体験のように語る場面は象徴的である。語りのエロティックな密度はすさまじい。だが実のところ、「私」は間村季那の凹んだ爪を口に含んだだけ、すでに他人が噛んだ痕跡を舌でなぞっただけなのだ。

 修辞を尽くして語れば語るほど、語るべき対象は遠くなってゆく。それでも人は、未練がましくも――「未熟」にも――語りつづけずにいられない。そのあさましさに対する意識こそ、本作の私的で濃密な語りを動かす力なのだろう。

 一方、鴻池留衣ナイス・エイジ」(新潮)は、インターネット時代の集団的な語りのあさましさをめぐる物語だ。未来から来たと称する「タイム・トラベラー」の正体をめぐって、掲示板が沸騰。言葉はどんどん上書きされ、人々の通俗的な欲望のままに膨張して、ついには人命を奪うに至る。その過程の現実感のなさがリアルで恐ろしい。

新潮社 週刊新潮
2017年7月6日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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