語り得ること/得ないことへの疑義 江南亜美子

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土の記(上)

『土の記(上)』

著者
髙村 薫 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784103784098
発売日
2016/11/25
価格
1,620円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

土の記(下)

『土の記(下)』

著者
髙村 薫 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784103784104
発売日
2016/11/25
価格
1,620円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

語り得ること/得ないことへの疑義 江南亜美子

[レビュアー] 江南亜美子(書評家)

 高村薫という作家と、真に出あい直すときがやって来た。『土の記』は、『黄金を抱いて翔べ』での一九九〇年のデビューから一作ごとに円熟味を増していく作家の、その最新の到達点であると同時に、まったく新しい高村文学の地平を切りひらく作品でもある。本作には、初期のサスペンス作品群で読者になじみとなった合田雄一郎は登場しない。ミステリ色を排し、親子関係と宗教を歴史の流れのなかでとらえた「福澤彰之三部作」(『晴子情歌』『新リア王』『太陽を曳く馬』)のような、戦後日本への批評的眼差しも希薄だ。描かれるのは、土。そして老い。これまで彼女が好んで書いてきた、権力と欲望と才気がうずまく政治の現場からは遠く離れた、奈良県は宇陀山地の農村で、物語は始まり、とつじょ終わる。

 主人公は、七〇歳をいくつか越えた上谷伊佐夫という男だ。東京育ちで東京の大学に進み、学問の道を続ける希望を持ちながら、その凡庸さゆえに関西の大手電機メーカーに就職した。四〇年前にふるい農家の娘と結婚して奈良の大宇陀に暮らしはじめたが、サラリーマン稼業をまっとうし、農業にかかわりだしたのは定年後にすぎない。すでに物語の冒頭で、妻の昭代は半年も前に他界している。最後の一六年間を寝たきり状態、いわゆる植物人間となって過ごした妻を、伊佐夫は世話しつづけた。いまもなお、年季の入った家にただよう妻の気配や匂いを感じ、彼女のオムツを替え忘れたのではないかなどと、まどろみのなかで錯覚する。

 読者の興味をつよく惹きつけるサスペンスの謎ときはなにも用意されないまま、時系列どおりにたんたんと描かれるのは、伊佐夫のあまりかわり映えもない日常の暮らしぶりである。読者のなかには、上下巻で五〇〇ページにもおよぶ大著が、それだけでもつのか、と心配する向きもあるかもしれない。

 高村は本作でなにを書こうとしたのか。ここにはどんな「物語」があるのか。読者は、伊佐夫というありふれた老人に寄り添うように、徐々に小説世界に足を踏み入れることしかできないのだが、無粋ながらも本作のテーマを大別すれば、(1)農村部の農業の問題、(2)旧習に晏然とする田舎の光景、(3)老いと病による記憶の混交、これらみっつが主旋律を成す。そこに、妻の交通事故の真相、村を震撼させるいくつかの事件、一人娘との関係などのサブテーマが伴奏となって、複雑で重厚な響きを構築するのである。

 髙村の代名詞といえば、徹底的なリサーチによるリアリティある描写力(たとえば警察組織に身を置いたことがあるのか、あるいは爆弾の製造方法を習得したのかと読者に思わせるほどの)であり、農業を扱った本作でもそのスタンスはかわらない。ときに人間の力では太刀打ちできない自然や天候を相手にしながら、太刀打ちできないからこそ、経験と知識と理論の集積が叡智となる農業という営みを、髙村は緻密に描きだそうとするのだ。加えて伊佐夫は、元技術者の習い性ゆえか、米作りを科学的に研究・実践している。周囲の奇異の目にさらされながら独学をすすめる「疎植栽培」という手法が、それだ。

〈顕微鏡レベルで穂の分化が始まる出穂三十日前から葉の色と幼穂の有無を調べ始め、結局、出穂二十六日前の七月二十九日の朝に西の田一枚で長さ一ミリ弱の二次枝梗原基を発見することとなった。葉の色もほぼカラースケールの《3・5》となり、これも葉鞘に蓄積したデンプンが追肥に適した量になったことを示していた〉

 辛抱強さが要求される日々のルーティーン。寡黙な観察と数値化と慎重な手入れのくりかえしのなかで、稲穂は登熟していく。雨や風や日照りや、チャドクガやカナヘビやスズメが、田畑の状況を刻一刻と変化させ、ときに鯰のような珍客に出くわす。伊佐夫は、作物の生育周期に同調するように軽い躁を感じ、また稲刈り後に鬱のはしりを自覚したりする。髙村の筆は、そうした一年を通した農夫の生理的感覚をもとらえるのだ。

〈昔の伊佐夫は、稲の生長に一喜一憂する農家の気持ちを理解できなかったが、昭代の歓喜を通して、幼穂や出穂などのそれぞれがいかに大きな出来事であるかを学んだ。謂わば昭代の身体を通して田んぼがあり、米づくりがあったのだが、いまも見えない昭代の身体がそこここに遍満しており、自分の身体と重なり合い混じり合うように感じながら、伊佐夫は田んぼに立っているのだった〉

 宇陀という地方がある意味で特別性をおびるのは、『古事記』『日本書紀』に描かれる神武天皇による建国神話の舞台のひとつでもあるからだ。こうした新興でない土地の旧家へ婿養子としてやってきた伊佐夫は、「よそ者」の正しい態度を、良くも悪くも身につけている。ひとつは、でしゃばらないこと。そしてもうひとつが、自分の一挙手一投足がいくら周囲の耳目をひいたとしても、気に病みすぎない神経、スルースキルの獲得である。

新潮社 新潮
2017年2月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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