語り得ること/得ないことへの疑義 江南亜美子

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土の記(上)

『土の記(上)』

著者
髙村 薫 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784103784098
発売日
2016/11/25
価格
1,650円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

土の記(下)

『土の記(下)』

著者
髙村 薫 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784103784104
発売日
2016/11/25
価格
1,650円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

語り得ること/得ないことへの疑義 江南亜美子

[レビュアー] 江南亜美子(書評家)

 村の噂は、びさいな差異を見出すことから始まる。たとえば、東京で暮らす伊佐夫の一人娘のその娘(孫)がこの地を訪れることになった日は、〈ふだんなら茶畑に登っていて留守のはずの時刻に掃除機の音がするというので、隣の桑野が何事かと覗きにきて、東京から上谷の孫娘が来るという話は、たちまち垣内から垣内へと伝播した。(中略)今朝は鼻の下が伸びてますで、今日はご機嫌ですな、張り切りすぎたら血圧上がりますで、近くを通る人や車から次々に声がかか〉る始末である。

 何年暮らそうとも、外の土地から来た人間である刻印が薄れることはない。下世話さと紙一重の、人々からの関心。衆人環視にちかい、プライベートの失われた土地で、伊佐夫は噂の中心人物ともいえる。なぜならば、妻・昭代の不貞の噂と交通事故の謎こそ、近年における村最大の関心事であったからだ。家督を継ぐ男系嫡子が生まれない家系にあって、昭代は伊佐夫を婿養子とした。その母も、またその母もそうだが、彼女たちはなぜか決まって婿とはことなる恋人の存在を、周囲に噂された。昭代の祖母にあたる隠居のヤヱが七〇を越えて行方知れずとなったのも、痴呆による徘徊という表向きの理由とはべつに、血筋の業があるのやも――。退屈の餌食としてこうした噂にたえずなぶられながら、一見平穏な伊佐夫の人生の晩年はある。

 田舎の濃密な人間関係や因習は、ひとを知らず知らずむしばむ。伊佐夫の一人娘が、かつて必死に学を修めアメリカにまで留学したのは、そのしがらみを嫌ったからともわかる。自然から恩恵を受けるいっぽう、土地に人間が拘束される、農業という第一次産業の宿命を、髙村は現代日本のひとつの問題として描き出すのだ。憲法改定や軍事大国化、新電力導入といった(これまでの髙村なら主題化したであろう)目立つ日本の現況のうらで、農村の崩壊も同時的に起きていると、私たち読者は改めて知る。

 集落の高齢化は進む。伊佐夫にせよ娘が土地を継ぐとはもはや期待しない。張り合いのなさからか、過去と現在、記憶の混交はしだいに程度を重くしていく。意識の混沌には、性と死の匂いがふいにたちこめる。

〈皮膚にぶつかって広がる吐息の流体が蒲団の下の顔を包む。ねえ、いま鯉を食べる夢を見てたわ――。龍神温泉へ行ったとき、川の傍の露天風呂が混浴やったでしょ。私がよう入らん言うて、せっかく来たのに内風呂ですませたの、覚えてはる?(中略)一瞬、渓流の音を耳元で聞いたような心地とともに伊佐夫は反芻し、それから昭代のオムツを替えてやらなければと思い立って身体を半分起こしかけたところで、ようやく何かがおかしいと思う〉

 緑の葉むら越しに見た、ぶらぶらと揺れる日焼けした昭代の足。三宮のキャバレーのダンスフロアで柔らかに揺れた昭代のスカート。無断外泊を続ける妻に募らせた焦燥感……。老齢の身体と脳裏に、埋火のようにくすぶっているのは、とうに亡くなってしまった妻への恋慕の情と呼ぶにはネバつきのある、執着の念なのだった。

 ここで、髙村が二〇一二年に刊行した『冷血』という作品を思い起こしてみたい。この作品は犯罪小説の形式をとりながら、犯人探しにもトリック解明にも主眼を置いたものではなかった。言葉は人間の心理にどれだけ近づけるか、いや近づくことはできないという反語を含み、その検証の書とも呼べるものだ。

 ある年の暮れ、東京郊外で子供ふたりを含む、裕福な歯科医一家四人が撲殺される。全三章のうち第一章で、犯行に至る経緯はすでに犯人の視点から明かされる。たまたま知り合った三〇代の男ふたり、無計画で成りゆきまかせのちゃちな「強盗殺人」事件に、隠された謎など一切ないように見える。第二章で有能なる合田刑事は彼らの身柄を確保し、つづく第三章で長い調書が作成される。詳らかになる犯人の来歴や家庭環境。しかしそこにも彼らを凶悪殺人犯たらしめる根拠(私怨や精神疾患)などなにもない。

 犯人たちは、犯行日の歯の痛みや気分をくり返し語ることはできる。しかし語ろうにも「動機」はなく、言葉は空回りする。調書など、因果律を整えたただの「物語」にすぎないことは合田も理解している。ひとはなぜ、他人を意味なく殺せるのか。あるいはそのカタルシスなき混沌に、因果律なき世界に、一般市民の私たちは耐えられるのか。合田も懸念する、司法の場で〈ありもしない筋道や物語がつくられてゆく〉ことの恐ろしさについて、いわば「物語批判」をミステリ小説内で展開してみせたのが、『冷血』であった。

 語り得ること、得ないことへの疑義は、『土の記』でも示される。本作は、伊佐夫の視点にほぼ統一されている三人称の語り手によって叙述されるが、語りはときおり伊佐夫から浮遊し、彼自身が自認できないことまでを、読者に明らかにしていく。寡婦となった昭代の妹がなにくれと面倒みてくれること。同室に床を敷き、ある夜蒲団に入る前に手が触れて、互いに見つめあったこと。〈思い返すほどでもないわずかな引っ掛かりが伊佐夫を寝間へ振り向かせたのだが、本人はほとんど自覚していない〉。もちろん「恋」などの一言では片付かない、想念の渦がそこにはある。自分を寝取られ夫の役回りにおいた亡き妻への復讐心もにじむ無意識の領域は、伊佐夫自身には知覚できない。自然を相手にする農はじつは言語/数値化可能だが、自身の内的自然は闇なのだ。ただ語り手だけが、その深い闇を潜るようにして、探り当てるようにして、言葉へと変えていくのである。

 こうして読み進めてきて初めて読者は、本作の長さが、物語自体に内的に要求されるものだと気づくだろう。農に携わるひとりの男の、一年すこしの暮らしと想念に肉薄するには、この粘り腰が必要だったのだと。昭代の死の真相(=「物語」)などもはやなんでもいい。そしていまや、よく理解したつもりの伊佐夫、隣人とでも呼びたくなるようなシンパシーを抱いたこの人物に、最終章では驚愕の出来事がふりかかるのだが、その内実については未読者のために明言をさけよう。ただひたすらに、自然が無秩序に発動する脅威に怖れおののくばかりだ。

 髙村は『土の記』において、一農夫の存在を通して、日本の農業政策、過疎地対策に警鐘を鳴らしたとも読める。土は、日本の歴史そのものである。その展望のなさが、くらいラストと響き合う。髙村薫という作家の凄みに圧倒される読書の体験が、ここにはある。

新潮社 新潮
2017年2月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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