【文庫双六】幸田露伴の釣り場 都塵を離れた中川――川本三郎

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幻談・観画談 他三篇

『幻談・観画談 他三篇』

著者
幸田 露伴 [著]
出版社
岩波書店
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784003101285
発売日
1990/11/16
価格
550円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

【文庫双六】幸田露伴の釣り場 都塵を離れた中川――川本三郎

[レビュアー] 川本三郎(評論家)

 釣りは文人趣味。

 井伏鱒二、瀧井孝作、『明治事物起原』で知られる石井研堂ら閑雅な釣りを楽しんだ文人は多い。

 幸田露伴も釣り好きだった。明治三十年に、向島(現在の墨田区)に移り住んでから釣りの楽しみを覚えた。

 家の近くを隅田川が流れている。東に歩けば中川。釣り心がかきたてられた。

 岩波文庫に入っている『幻談・観画談 他三篇』は晩年に書かれた短篇集。うち「幻談」(昭和十三年)と「蘆声(ろせい)」(昭和三年)は釣り人を描いている。

 とくに「蘆声」が絶品。

 明治の末。露伴を思わせる文人の「自分」は、川に近い地(向島)に住んだので自然と釣り好きになる。

 毎朝、早く起き、仕事をすますと、午後、釣りに出かけてゆく。行先は中川の立石(たていし)あたり(葛飾区)。当時は都塵を離れた田舎。

 ある秋の一日、いつものように中川にたどり着く。ところが自分の釣り場に先客がいる。面白くない。

 見ればまだ十一、二歳の子供。粗末な釣竿で、とても釣りに慣れているとは見えない。場所を譲ってくれと頼んでみる。

「(どうせ釣りは)根が遊びだからネ」

 子供はこの言葉に反発した。「小父(おじ)さんが遊びだとって、俺が遊びだとは定(きま)ってやしない」。

 やがて「自分」は知る。この子供は貧しい家の子で義母に言われ、その日の食になる魚を釣りに来ていたのだと。優雅な文人の「遊び」と違って、必死に釣りをしていた。

 子供の幼ない苦労を思い、「自分」は、いつしか中川から足が遠ざかってしまう。

 露伴によれば、中川は「四十九曲(まが)り」といわれるほど屈曲して流れるために「岡釣りの好適地」になっていたという。

「自分」の釣り場は「西袋(にしぶくろ)」。「奥戸(おくど)」の対岸とあるから現在の京成押上線の立石駅近くだろう。

 中川は東京のなかでも語られることの少ない地味な川だが、露伴のこの名品によって記憶されている。

新潮社 週刊新潮
2017年7月13日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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