「私」の物語の閉じ方 滝口悠生

レビュー

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私をくいとめて

『私をくいとめて』

著者
綿矢りさ [著]
出版社
朝日新聞出版
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784022514455
発売日
2017/01/06
価格
1,512円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

「私」の物語の閉じ方 滝口悠生

[レビュアー] 滝口悠生(作家)

 同世代の女性を多く書き、また同世代の女性から多く読まれてもいる綿矢りさの作品には、作家本人の意向はともかくとして結果的に幾分男子禁制的な雰囲気が漂っており、三十代の男性が電車内や喫茶店で綿矢りさの本を読むのは周囲の目が少し気になる。そんなのつまらない自意識に過ぎず、また書評子にあるまじき気後れなのだが、筆者に本作の書評の依頼がきた趣意には多分そのミスマッチも含まれている。

 こっそり読もうと書名と作者名が目を引くカバーを外して持ち出したところ、カバーの下の表紙は水色地にピンクでお菓子やパンのイラストが描かれており、車内や店内ではかえって目立ってしまうのだった。外してきたカバーに描かれていたOL風の女性のイラストはわたせせいぞうによるもので、大人の女性像を剥がすとカラフルでファンシーな表紙が表れる、という仕様は本作の主人公ともなるほど相似をなしている。

 三二歳の独身女性である「私」は、会社ではミニお局を自認し、苦労や不満を飲み込みつつ、波風立てずに仕事をこなす。もう長いこと恋人はおらず、恋愛に興味がないではないが、本音を言えばひとりが気楽で、休みの日には合羽橋の食品サンプルを作る講座にひとりで参加したりしている。

 問題は彼女が恋愛に消極的なことよりもむしろ、ひとりでいることに充足し過ぎていることのようだ。いい感じの関係にある男性(取引先の営業の多田くん)はいるが、積極的にアプローチはせず、現状のぬるい幸せに留まり続けたいと思っている。このままではいけないという焦りもあるが、大人の女性という表層の下にあるカラフルなときめきを、内に秘めるというよりはむしろ、それが露わになって現実に晒されることを恐れている。そして、そういった問題の分析や乗り越えが、単に「私」の生活や経験が語られることによってではなく、「私」が自分のなかにつくりだした「A」なる存在との対話によってなされるのが本作の趣向である。

「A」の属性ははっきりとは明かされない。「Aは私自身」と度々言明されるが、その対話は単なる自問自答とは違う。「私」は「A」を頼り、「A」は「私」に頼られる。その逆はない。「Aの声は穏やかで、ときにさりげなくホットミルクのように甘く温かい。理想の恋人の声だ」とあるように、「A」は姿形のない「声」であり、また「私」が「A」を指す時に用いる代名詞は「彼女」ではなく「彼」だ。

 多田くんとのゆっくり進展する恋や、旧友の皐月に誘われて赴いたローマへの旅行、年上の同僚ノゾミさんとの軽妙な会話や、ノゾミさんが熱を上げる二枚目の奇人カーターこと片桐を交えたディズニーランドでのダブルデートなど、作中様々な出来事が語られるが、「A」の声はそれらの現場においては鳴りを潜める。彼が現れるのは私がひとりでいる時だけだ。

 ひとりでいるというのはいったいどういう状態なのか。自分以外に誰もいない、自分を自分と認める他者がいない時、我々はどんなふうに存在しているのか。あらためて考えると、自分もまたこの主人公と同じように誰かに向けて、考えたことや思い出したことを発しているのではないかと思えてくる。というか、我々は向ける先のないままに、何かを思ったり考えたりすることができるのだろうか。「A」のように明確な返答をしなくとも、人はひとりでいる時に架空の誰かをそこに立てて、何かを思ったり考えたりしているのではないか。

 そしてことは小説のなかでも(小説のなかでこそ?)同じであって、本作に限らずともいろいろな小説に登場する「私」「私」「私」……。彼らはいったい誰に向けて言葉を発しているのか。小説の語り手たちのひとりごとの宛先は、多くの場合明示されずに済まされるのだが、本作の「A」は「私」にとって非常に明瞭な宛先である。しかし同時に、その明瞭さは、ひとりでいることに慣れ過ぎてしまい他者が自分の生活範囲を侵すことに強い抵抗を覚えるまでになっている「私」の危うさも示す。「A」がはじめて話しかけてきたのも、深夜に孤独と親しくなりすぎる「私」に警鐘を鳴らすためだった。

 物語の終盤、「私」はとうとう多田くんと恋人同士になる。本作を、変わった自意識を持つ女性の恋愛物語として読むならそれはハッピーエンドだが、これはやはり「私」と「A」の物語であり、それはつまり「私」の物語だ。現実のなかで誰と何をしようが、どこで何が起ころうが、ひとりきりの時にだけ紡がれてきた孤独な物語は、「私」が恋人と引き換えにひとりきりの時を失うことで破局を迎える。

 出先で大雪に見舞われて急遽ホテルに泊まることになった晩、多田くんに迫られそれを拒んだ「私」はホテルの廊下でパニックに陥り、泣きながら「A」に助けを求める。「部屋に帰りたくない。多田くんに会うのがこわい、また不穏な空気になったらどうしよう。一人で孤独に耐えている方がよっぽど楽だよ」。

 彼女が恐れているのは多田くんではなく、ひとりでいられないことだ。ひとりでいなければ、自分が自分でいられない。外聞を忘れ幼児のように無力になって助けを求める彼女の倒錯がここで切実なものとして響くのは、一見すると頼りない面ばかり目立つ彼女が、それでも十年もの間社会人として、大人として、「ひとり」で生きてきた時間の厚みとそこにある矜持がさりげなくも効果的に随所に書き込まれているからだ。

 ここで「私」の声に応える形ではじめて「A」が姿を現す。読者の予想を大きく外してくるその場面はとびきりユーモラスで、しかしそれは「私」をひとりだちさせるべく「A」が「私」の元から去っていく切ない別れの場面でもある。

 小説はどう始まってどう終わることもできるものだが、語り手である「私」が語る先を失ったことで「私」の物語が終わる、という本作の閉じ方はきわめて王道で真っ当だと思う。王道で真っ当であることからできるだけ遠ざかろうとする書き手や作品も多いなか、こんなにシンプルに、鮮やかにその真ん中を突くところに、この著者の技術に裏打ちされた凄みと凜々しさがある。というのはいかにも同じ書き手っぽい読み方かもしれないけれど、最後には自意識も疎外感も性別も世代も関係ないひとりの読者として、「私」と多田くんの幸せな行く末を願いながら読了した。

新潮社 新潮
2017年4月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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