芸術家小説の現在 三浦雅士

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名誉と恍惚

『名誉と恍惚』

著者
松浦 寿輝 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784104717033
発売日
2017/03/03
価格
5,500円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

芸術家小説の現在 三浦雅士

[レビュアー] 三浦雅士(編集者、文芸評論家、舞踊研究者)

2

 時は一九三七年、所は第二次上海事変直後の上海、主人公は芹沢一郎、上海共同租界の日本人警察官である。日本人ではあっても、内務省から派遣されているのであって、第一次及び第二次上海事変の当事者というか謀略の主体である日本軍とは一線を画している。物語の発端は、陸軍諜報機関の切れ者らしい嘉山少佐なる人物に秘密裏に呼び出され、上海の闇の帝王・蕭炎彬(ショー・イーピン)とこれも秘密裏に引き合わせるよう依頼されるところから始まる。芹沢は蕭とは一面識もない。路上で一度凝視したことがある程度で、一警察官が対応できるような相手ではない。だが嘉山は、いや、あなたが昵懇にしているあの時計屋の爺さん、馮篤生(フォン・ドスァン)は蕭の伯父なんですよ、と言うのである。馮の姪、美雨(メィユ)が蕭の第三夫人なのだ、と。芹沢は馮老人とはなぜか気が合い、店ではなく家に出入りするまでになっていたが、蕭との関係までは知らなかった。

 芹沢は馮を通して嘉山を蕭に引き合わせることに成功する。だが、その代償として、若く美しい第三夫人、美雨の一夜の外出のエスコート役を引き受けさせられる。蕭は会談に芹沢も同席させるよう主張したが、嘉山がそれを頑なに拒んだからである。妥協案が芹沢に美雨をエスコートさせるというものだった。蕭は美雨に手を焼いていたのである。物語のこの展開は無理なく鮮やかで、息もつかせない。しかも過去の描写が巧みに織り込められていて、たとえば同僚の警察官で、平凡というほかない乾の描写も、彼が幼年時代を過ごしたという上海の昔の様子と織り交ぜられていて、きわめて自然である。馮老人の趣味である妖しい人形作りの話も含めて、すべて後の展開の伏線となっているのだが、わざとらしさがまったく感じられない。

 と、ここまで述べただけでも、物語を織り上げてゆくための労力のほどがしのばれるわけだが、小説はさらに、嵌められたのは芹沢のほうであり、蕭に接近し内部情報を洩らしたことなどが罪に問われて辞職に追い込まれることになるというように、どんでん返しの展開を重ねてゆくのである。頼みの綱の嘉山は、蕭との会見は芹沢のほうから持ちかけて来た話で、蕭とも顔を合わせただけだと白を切る。しかもその過程で、芹沢の出生の秘密、すなわち父が朝鮮人、母が日本人であって、戸籍上では母の祖父母が父母となっていたことなどが不利な事実として暴露され、謀略の片棒を担いでいたのが同僚の乾にほかならなかったことが分かって、芹沢はついに乾を殺して逃亡するにいたる。アクション映画そこのけの展開である。ここまでが二部構成の第一部。

 日本の官憲から追われる身になった芹沢が頼ることができるのは馮老人しかなかった。その紹介で町工場の住み込み労働者となり、苦力などを転々とした後、芹沢は馮の経営する小さな映画館の映写技師となってフランス租界に潜伏する。名も沈昊(スン・オー)と改め、中国人になり切っている。その間、芹沢はいったいなぜ嘉山が自分をいずれ抹殺するつもりで蕭との面会を取り持たせたのか考え続ける。だが、考え続けたその内実が明かされるのは、小説も終わり近く、馮老人が上海を引き払い、美雨らをも引き連れて香港へ移住することにしたのに、芹沢も便乗することにしてからである。彼らと同じ船で上海を出ることにしたその夜、馮老人の配下の少年のひとりが嘉山を〈国際飯店(パーク・ホテル)〉の入り口で見たという情報を寄せる。芹沢は、乗船時間を間近にしながらも、〈国際飯店〉に急行し、バーで嘉山を見つけ、その隣に身を寄せて坐わり、殺意を漲らせながら嘉山を問いただす。捨て身である。

 おまえは阿片で一儲けしたかったにすぎない、陸軍の軍資金のためでも何でもない、おまえの私腹を肥やすためにだ、だから事後には抹殺されるべき存在として俺を選んだんだ、と、芹沢は言う。芹沢は、謀略を事とする嘉山がじつは「我利我利亡者の奸物」などではなく「骨の髄まで愛国者」なのだと直感していて、この侮辱こそ嘉山を怒らせ挑発することになると考えたのである。だが、嘉山が余裕を失ったと思えたこの瞬間、事態は逆転し、芹沢は嘉山の手下に拳銃を突きつけられ、運び出され、痛めつけられる。意識を取り戻した芹沢は、〈国際飯店〉十四階の、営業時間を終えて人ひとりいない〈月光餐庁(クレール・ド・リュンヌ)〉まで連行され、そこで再び嘉山に面会する、というか尋問される。蕭と自分がどういう話をしたか知ってどうなる、「知ろうが知るまいが同じことだろう」という嘉山の問いに、芹沢は答える。シナリオふうに会話を繋いでみる。

「知るのと知らないのとでは天地の隔たりがある」

「つまらないこだわりだな」

「つまらなくても何でもいい。単に、おれの名誉の問題だ」

「名誉……名誉とは! 笑わせてくれるねえ、芹沢さん」

「いくらでも笑え」

 以後に展開される戦争と人間をめぐる対話は十分に哲学的である。映画『第三の男』の、オーソン・ウェルズが登場する土壇場、ウィーンの地下水道の場面を思い出させる。『名誉と恍惚』では阿片、『第三の男』では不良薬品だが、主題が似ているのだ。その後に芹沢と嘉山のビリヤードの場面が続く。「あんたはビリヤードをやるんだったよな。球を撞いて、それで決めることにしよう。それでもしおれに勝てたら、あんたを放免してやる」というのだ。〈月光餐庁〉には撞球台があって二人はその前に立つ。いわば主役と敵役の決闘シーン。アクション映画の常套だが、じつに秀逸でビリヤードが芸術であると思わせずにおかない。物語の主筋が〈百老匯大廈(ブロードウェイ・マンション)〉の最上階で始まり〈国際飯店〉の高層階で終わるという設定も巧みというほかない。俯瞰への意志――映画――を示している。

 だが、もっとも重要なのは、自分がいったい何だったのか腑に落ちてから死にたい、それは名誉の問題だと述べているそのことである。

 これこそ批評の本質なのだ。

新潮社 新潮
2017年4月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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