『ピアニストだって冒険する』 中村紘子著

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ピアニストだって冒険する

『ピアニストだって冒険する』

著者
中村 紘子 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784103510512
発売日
2017/06/30
価格
1,944円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

『ピアニストだって冒険する』 中村紘子著

[レビュアー] 橋本五郎(読売新聞社特別編集委員)

魅惑のヒロコワールド

 世界的ピアニスト、中村紘子が亡くなって7月26日で1年。死のひと月前まで書き継がれたエッセイが瀟洒(しょうしゃ)な本になった。歴史への洞察を踏まえた文明批評、鋭利な現代批判、研ぎ澄まされた人間観察、小気味よい文章……。「天は二物を与え給うた」との感慨を禁じ得ない。

 まず読書量の膨大さと交遊の広さ、深さに驚く。そこからあらゆる養分を吸い上げて「中村紘子」はつくられたのだ。その象徴的な人物が安宅産業2代目の安宅英一氏である。安宅氏は15歳の「小娘」に朝鮮李王朝時代の国宝級の白磁を触らせ、速水御舟(ぎょしゅう)のおびただしいデッサンを見せ、新喜楽や吉兆で食事させた。

 「コンクールの政治学」とでも呼ぶべきものも鮮やかに描かれている。コンクールは「準備不充分な逸材よりも、周到な準備の整った凡才を選ぶ」。審査員は圧倒的に男性が多く、同じ実力があれば、魅力的(セクシー)な方を選択する。それが人間社会の厳しい現実である。

 旧ソ連の国策としてつくられたチャイコフスキー・コンクールと比較してのショパン・コンクールに込められたポーランドの人々の思いには思わず目頭が熱くなる。千年近くにわたる近隣からの迫害でズタズタにされた民族の誇りと希望を取り戻し、未来に向かう新たな力を与えてくれたのがショパンだったのだ。

 現代日本への批判も容赦がない。なぜピアノ界に新しいスーパースターが現れないのか。ハングリーでないことが一番の問題だが、今日の日本では「未成熟」を売り物にし「カワイイ」がもてはやされている。大人になるより子供で居続けた方が楽しい社会では無理なのだ。

 一人の類いまれな才能を大きく育てるためには、一人の教師が身も心もその個人的な幸福までも捧(ささ)げ切ってしまわなければならないという「天才児にひそむ魔」の指摘、恩師井口愛子先生への評価など、冷徹さの中に温かさがあり、公正さを失っていないことにも心惹(こころひ)かれる。

 ◇なかむら・ひろこ=1944~2016年。ピアニスト。著書に『チャイコフスキー・コンクール』など。

 新潮社 1800円

読売新聞
2017年7月23日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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