黒柳徹子・特別寄稿「ここに立つのは私ではなくて」――永六輔さんへの弔辞

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ここに立つのは私ではなくて

[レビュアー] 黒柳徹子

 永さんとは、六十年もの長いおつきあいなのに、たいがい笑いあっている時しかなくて――ちょうど今年で六十年なんですよ。私がディズニーの日本語版の吹き替えのオーディションを受けたら、あれは「わんわん物語」だったと思うんですけど、もうちょっとのところで私が落ちたんですね。そしたら、ミスター・カッティングというディズニーの製作の人が、「徹子を落として本当にすまなかった」というので、お詫びのしるしに渡してくれと、アメリカ製の赤いハンドバッグを永さんに託したんです。

 当時、永さんは三木鶏郎さんの事務所にいて、ディズニーの吹き替えをやる人たちを探す、キャスティングの仕事もしていたらしいんです。それで、永さんは赤いハンドバッグを持って、NHKで「ヤン坊ニン坊トン坊」をやっている私のところへ会いに来てくれました。私は、それまでにNHKでさんざん、おろされていましたから、ディズニーのオーディションに落ちたこと自体は全然平気で、まだ日本では珍しかったハンドバッグを喜んで貰ったんですけど、永さんのことを単なるお使いさんだと思っていました。そんな初対面でした。後になって永さんから、「憶えてる? あの赤いハンドバッグを渡したのは僕だよ」って聞きました。それが昭和三十一年、今からちょうど六十年前のことです。私は芸能界に入って六十二年になりますけど、そのほとんどの時間をお友だちとして過ごしてきました。

 それなのに、私は永さんと、一回だけ奢って貰ったことがあるだけで、一緒にご飯を食べたことが本当にないんです。たぶん永さんは、ああいう方ですので、一緒にご飯を食べたりするのを、なんか嫌がってるみたいなところがあって、私は(やっぱり、キチンとしたところでだけ会いたいのかな)と感じていました。

 一回だけ奢って頂いたというのは、私が鹿児島で芝居をしていましたら、フラッと永さんが会いに来てくれて、昼間の公演が終った後だったせいか、「めし食う?」って言ったんです。私は(永さんが食事に誘ってくれるなんて、珍しいな)と思って、「行く、行く」って答えたら、永さんが「ネギめし好き?」って聞くんです。私は「うん」と言ったんですけど、ネギめしがどんなものか知らなかったので、想像して、きっと細いお葱がいっぱい乗っかってる、なんか美味しいものなんだろうなと思って、永さんについて行きました。そしたら、店先に葦簀(よしず)が張ってあるラーメン屋さんみたいなところに連れて行かれまして、しかもそのラーメン屋さんが昼間なのに閉まっていて、永さんはドンドンドンって入口を叩いて、わざわざ開けてもらっているんです。

 ようやく出てきたおばさんに、「黒柳君にネギめし、食わしてやってよ」「はいはい」って、その出てきたネギめしを見ましたら、ラーメンの上に乗せるお葱ありますよね、よく切れてなくて終りの方がくっついちゃったりしてるようなやつ。あれをご飯の上に乗せまして、ラーメンのおつゆありますよね、ラーメンのスープ。あれをその上からかけるだけ。それが永さんの言うところの「ネギめし」でした。

 もちろん不味くはないんですけど、芝居が終わって、せっかく鹿児島で会ったのだから、もうちょっと美味しいものを食べたいなと思って、永さんに「ねえ、もうちょっと美味しいものないの、なんか」って聞いたら、「こんなうまいものないじゃないか」と叱られそうになったので、「じゃ、これでいいです」って、それだけ食べたことを憶えています。

 これ以外に永さんにご飯を奢って貰ったことも、私が奢ったこともないように思います。六十年も一緒にいて、ご飯を食べたことがないっていうのは、ずいぶん珍しい関係だと思いますね。

 私は、永さんに叱られたことがありませんが、一回だけ永さんが怒ったのを見たことがあります。二十五年くらい前、中村八大さんが急に亡くなったというので、私と永さんは、とにかく急いで八大さんのお家へ行ったんです。夜中でした。八大さんの奥さまとお話をして表に出てきたら、もうマスコミの人たちが待っていました。

 永さんが十メートルくらい先を歩いてて、同じ車に乗って帰る私は後ろから、黙ってついて行っていました。そこへマスコミの人がなんか言ったと思ったら、とつぜん永さんが大声で「ばかやろー、あたりまえじゃないか!」って、ものすごく怒り出したので、私は何事かと走って行って「どうしたの?」と聞いたら、永さんに「八大さんが亡くなって、お悲しいですか?」って聞いたんだそうです。それで永さんが怒って、余計に何だか気持ちに収まりがつかなくなっちゃって、一緒に乗った自動車の中で、私も永さんも、ずっと泣きながら帰ったのを憶えています。それから永さんは長いこと、八大さんの遺志を継いで、世界中の日本人学校を廻っていました。八大さんのお父さまが中国で日本人学校の校長先生をしていたこともあって、八大さんが生きている時から二人でやっていたことなんですが、永さんひとりになってからも、ずいぶん、いろんな外国の日本人学校へ行ってらっしゃいました。

 ……いま私、この祭壇の三枚の写真を見てて思ったんですけど、それぞれ永さんの二十代、五十代、最近の写真ってことですが、真ん中のラジオマイクの前にいる写真を見ると、五十代の頃の永さんは、本当に見場(みば)がいいなと思いますね。その頃は、あんまりそうは思わなかったんですけど、あらためて見ていると、(こんなにハンサムだったんだなあ)って思います。

 永さんが、昌子さんを亡くされた後、「講演で『僕は黒柳君とは結婚しませんからね!』って言うと、みんながワーッて笑うんだよ」とよく言っていまして、私は「そう」なんて答えてたんですが、しばらくすると、「あれで受けなくなったんで、このごろは『黒柳君と結婚します!』って言うんだ。それで、またワーッて受けるんだよ」って。それで私が「でも、あなたとは結婚しないと思う」と言ったら、永さんのお嬢さんも「結婚、駄目だと思います。二人で朝から晩までしゃべって、どっちも相手の言うことを聞いていないと思います」って言われたので、(やっぱり、そうか)と思いましたけど。

 だけど、永六輔さんみたいな難しい人と、あんなに長く結婚していらした昌子さんは、本当にいい奥さんだったんだと思います。もう、あちらで昌子さんにお会いになっていると思いますけど、それがいちばん、永さんが待っていたことでした。昌子さんが亡くなってから、十四年半も永さんはひとりで暮らしました。私は、永さんがひとりで暮らしてて大丈夫かなって心配してはいましたけど、何か持って行って、食事を作ってあげる、なんてこともないままでした。

 それこそ、「永さんと結婚しようとは一度も思ったことはありませんでしたか?」なんて、私にお聞きになる方もいるんです。そういうことは、全然なかったです。でも、本当にいい、お友だち以上の――何て呼ぶのか、何て言っていいのかわからないんですけど、よく同志とか戦友とかって、みなさん仰いますけど、そういうのでもなくて、やっぱり心からの……何て言うのかしら? 決して、永さんとは心からわかりあってはいなかったんですよ。こんなに長く話してきたのに、お互いによくわかっていないんじゃないかなあ、って思う時もあったんです。それでも、ずっと仲よくしてきて。

 永さんは「徹子の部屋」の最多出場者でもいらっしゃって、三十九回も出て頂いて、その度にいろんなお話をして下さったんですが、私に面白い話をするためにと、一生懸命、駆けずり回って、新しい話をいつも仕入れて下さっていたんです。

 こんなに長い話をするつもりじゃなくて、「五、六分で」というお話でしたので、もうこれでやめることに致します。

 永さん、私はこれからの人生について、あと十年は「徹子の部屋」を続けよう、いま番組が始まって四十年なので、五十年までは「徹子の部屋」をやろう、と思っています。だけど、はっきり言って、永さんがいらっしゃらないこの世の中は非常につまらない、とも思っています。本当に、永さんが亡くなったのは、いろんな方がこのところ続けて亡くなりましたけど、〈最後の一撃〉というふうに私は感じています。

 でも永さん、どうぞ私たちを見守って下さい。あなたが教えて下さったこと――なんて言うとお勉強みたいですけど、そうじゃなくて、あなたが教えて下さった面白いこと、そして「夢であいましょう」などで、あなたがお書きになった歌、そういったものを私は忘れないようにして生きて行きます。あなたが本当に守ろうとした子どもたちが、これから幸せに生きて行ってくれればいいと、そう願ってもいます。

 永さん、あなたが私の葬儀委員長をやるってことになっていたのですから。ここにこんなふうに私が立っているはずはなかったのですから。私でなく、永さんがここに立つ予定だったのですから。本当に私、悲しい、って思っていますよ。

 永さん。六十年間、いいお友だちでいて下さって、本当にありがとうございました。心からお礼を申し上げますし、永さんの優しさにも心から感謝しています。ご冥福をお祈りしています。「さよなら」というのも変なので、どうせ近いうちにお会いすると思いますので、そのときにまた。じゃあね。

(於・青山葬儀所/二〇一六年八月三十日)

この一文を新たに収録した新潮文庫版『トットひとり』が十月末に刊行されます。

新潮社 波
2017年8月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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